女性と交際するより、髪の毛を取りました

定年退職はコロナ禍に重なったが、同僚の中には泣いてくれた人もいたという。

「定年直前にいい人になった、って伝説の人物になったみたいです。頑固おじさんの改造計画は成功したってことですね。まあ、それまで性格も暗く、ろくに仕事もせず、名ばかり課長のくせに偉そうなことを言っていましたからね。あれは、営業や開発・製造部門に食わせてもらっている僻みと、“俺はもっといい仕事ができる”という会社への恨みがあったんでしょう」

土日に会社の前で、デリバリー依頼の待機をしていたこともあり、愛社精神も芽生えたというが、人間の気持ちはそう簡単に変わらない。なのになぜ切り替えることができたのか。息子の一言は、そんなに威力があったのだろうか。

「息子の“お父さんは醜い”はきっかけにすぎません。デリバリーの仕事で、いろんな人に“ありがとう”と感謝され、チップをもらっているうちに、時間をかけて変わってきたんです。正直、“名門国立大学を出て、いい会社に勤務している俺が配達してるんだ”ってプライドは今でもありますよ。でも、それはデリバリーで稼ぐときの害悪にしかならないので、そんな気持ちが出てきたら、ハンマーでピョコ! っと叩いています(笑)」

仕事で、会社の“お荷物”扱いされていたのも良かったという。

「誰も僕のことを大切にしてくれないから”ありがとございます”が身に沁みました。なまじ、部長になってチヤホヤされていたら、若いあんちゃん・ネエちゃんの”ありがとう”に心は動かないでしょうしね。それに、そもそも配達員の仕事もしていなかったと思う。さらに加えるなら、“定年したらただのおじさん”という状況が耐えられなかったと思います。あと、離婚も良かった。妻がいれば“雇用延長してもらって65歳まで働く”となってたでしょうから。あれって、人事部が垂らす蜘蛛の糸に縋って生きることでもあるんですよ。やっぱり、私にとっては辛いな」

同期入社の仲間たちには、役員や子会社の社長になっている人もいるが、ほんの一握り。

「彼らのプロフィールをみると、実績がすごいか家柄がいい。僕は23区のはずれの小さな地主の次男坊。親の情けで土地こそもらえましたけど、上物を建てるお金は親にもない。僕が庶民というと、弊害はあるかもしれませんが、超有力な後ろ盾がいないから庶民なんですよ。そういう人は、定年後の人生を早々に考えた方がいい。振り返ると、入社当時から会社員人生は決まっていますからね」

隆史さんはデリバリーの仕事をこれからも続けるという。

「定年がないから、元気なうちに働かないと。やりたくないときは“待機”しなければいいだけ。孫を預かるときは仕事をしないとか、自分の生活に合っているのもいい」

コロナ禍以降、23区のはずれの自宅で待機していても仕事が入るようになった。それは外国人が住む地域が形成されてきたからだという。

「ウチの近所に、ある国の現地の料理を提供するレストランができ、その店からのデリバリーが激増したんです。その店に日本人が入ることはほとんどないと思います。大量の料理を、14キロ離れたタワマンのパーティルームに運ぶとか、2〜3皿を高級マンションに届けるとかいろんな仕事がありますよ。さらにそれはチップがめちゃくちゃいいんです」

イキイキと話す隆史さんは、きっとモテるはずだ。恋人の存在はいないのかと聞くと、「馴染みのコンビニの女性店員に告白されたんです」と恥ずかしそうに言った。

「彼女は50代後半でバツイチ。時々散歩や食事をしますが、頭髪の薬を飲んでいると、ホルモンの影響なのか、なかなか色っぽい関係にはなりにくい。僕は女性より孫が好き。“髪が生えたかっこいいおじいちゃん”を選びますから、関係はその先には行きませんよ」

今、隆史さんはとても楽しいという。次男は独身のまま家にいるが、何の心配もしていない。隆史さんは「動くこと、人と会うことが一番のアンチエイジングになる」という。当然、物事にはいいことばかりではない。デリバリーの仕事で、接触事故を起こしたこともあれば、届け先で危ない思いもした。罵倒されたことも、一度や二度ではない。それでも人は生きていく。そんな力強さを隆史さんの姿から感じた。

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。

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