40歳ごろから妻は太り始めた悲しい理由
もともとぽっちゃりしていた妻が太ってきたのは40歳を過ぎたあたりから。
「かなりふっくらして、血圧も上がった。生活習慣病の兆候があると言われ、気を使っていたけれど、どうしても食べちゃうよね。一緒にダイエットをすると、痩せるのは私だけ。妻は病院を嫌って、そのままにしていた」
自分のことは二の次、三の次にして、憲明さんと息子たちの面倒を見ていたという。
「息子が生まれたあたりから、添加物や農薬が少ない食材をわざわざ取り寄せて、食べさせてくれた。ガンのリスクを低くするための勉強会にも参加して、牛乳や卵も“いいもの”を選んでいた。私の帰りは遅くなることが多くなり、妻と子供たちで食事をしていた。どうも妻は家族にはいい食材を食べさせていたのに、自分はインスタント食品などで適当に済ませていたようなんだ」
妻はずっと母親から搾取されており、「家族にはいいモノを」という習い性になっていたのではないか。
「おそらくそう。だから、安い食べ物を何十年も食べ続けていた。東日本大震災の時も、私や子供たちへの放射能の影響を過度に心配し、九州から水を取り寄せていた。それなのに自分は水道水を飲んでいた。自己犠牲が習性ってホントに悲しい」
気持ちが安定している妻が、最もパニックになったのが、震災の時だったという。
「様々なデマに気持ちが揺さぶられ、メンタルがやられていることがわかった。妻は苦労人だけあって、辛抱強い。でも目に見えない敵にはとても弱い。震災から元の妻に戻るまで3年くらいかかった」
それから、体調が不安定になり、57歳で早期退職をした。高血圧やホルモンバランスの乱れがあり、漢方薬やハーブを飲みながら、自己流でケアしていたという。
「頭が痛いということも増え、病院に行くことをすすめても『いいのよ』って。『もし入院って言われたら、私、泣いちゃう。パパと別れて夜過ごすなんてイヤよ』と言うんです。いじらしくて、かわいくて、思わず『ママ、愛してる』なんて抱きしめちゃったりしてね」
それは、亡くなる1か月くらい前のやり取りだ。
「11月、冷え込んだ日の朝、風呂場で倒れて、それっきり。たまたま私が家にいたので、救急車を呼んだのだけれど、明らかに心臓が動いていなかった。救命する間もないくらい、あっけない最期だった」
葬式には500人以上の参列者があり、葬式会社の人も驚いていた。
「妻の友人が口々に『初めて自慢の旦那様にお会いできたわ。こんな席じゃないところで会いたかった』なんて言いながら嗚咽している。恥ずかしいけれど私も泣いてしまった。葬式が終わったら、体重が2キロも減っていた。あれは涙の量だと思う。それから、何をしても楽しくないし、涙がこみあげてくる。今も仕事以外はずっと家で泣いている。まだ妻が使っていたものに手を付けられない」
ずっと沈んでいたが、ここ最近のコロナ禍で、考え方が変わってきたという。
「妻の性格を考えると、今回のコロナ禍は、彼女にとってとても苦しかったと思う。自分自身もハイリスク要素を抱えているから、ひたすら怯え、長期間を過ごさなくてはならなかったはず。見えない敵との長期戦を考えると、彼女はこれを知らず天国に行ってしまい、よかったと思うようになりました。ただ、私自身は孤独ですよ。でも、いつか死ぬときに、彼女の前に立って胸を張れるように、この孤独な戦いに耐えていこうと思っています」
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』『不倫女子のリアル』(小学館新書)がある。