
「自分も幸せになれその上お国のためにも役立つ」
大山捨松 大正8年(1919)2月18日没。58歳
放送中のNHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』にも印象的な役どころで登場した大山捨松は、幼名を咲(咲子)といった。11歳で米国留学するに当たり、母親が娘の名を捨松と改めた。「捨てたつもりで遠い異国に送り出すが、帰りを心待ちに待つ」という意味を込めての改名だったという。
母の切ない思いがその名ににじんでいる。
捨松は万延元年(1860)、会津若松で生まれた。父は会津藩家老の山川尚江重固、母は唐衣。唐衣は12人の子をもうけたが、うち成人したのは7人で、捨松はその末子だったという。父の重固は、末娘がこの世に生を享けるひと月前に病死し、捨松は父の顔を知らずに育った。
捨松が満年齢で7歳(数え8歳)のとき、戊辰戦争が勃発。徳川幕府の京都守護職にあった会津藩主の松平容保は、たちまち朝敵となり、会津戦争へとつながっていく。
会津戦争が終りに近づく頃、男たちは皆、戦いに出て、女・子供は、会津城に籠城した。捨松も母や姉、義姉とともに城に入った。いつでも、死ぬ覚悟はできていた。敵軍は城の周囲に大砲をすえつけて、城内へ打ち込む。毎日のように、大砲の弾が捨松たちの頭の上をかすめていった。城の中に落ちてきた弾を拾い集めて積み上げておくのも、捨松の仕事のひとつだった。ある日、敵の打ち込んだ砲弾が室内で破裂し、捨松は首を怪我し、義姉(兄の嫁)は胸に傷を負い苦しみながら死去した。
多くの戦死者を出し絶体絶命の窮地に追い込まれても、会津軍はなかなか降伏する決心がつきかね、まだ余裕があると敵方に思わせるため、子どもたちは祝日に揚げる凧を揚げるように言われ、食糧がすっかり底をつき飢えのために降伏するまで揚げ続けたという。
最後、降伏の白旗を上げようにも、城中にある白布はすべて繃帯として使い果たしてしまっていた。そのため、降伏が決まると、女たちが小さな白布の切れ端を持ち寄って、無念の涙を流しながら縫い合わせたと伝えられる。
岩倉使節団とともに海を渡る
生き永らえた会津藩の人々には、なお過酷な運命が待っていた。新政府によって、本州最北の不毛の地、斗南(となみ)へ追いやられたのだ。凍死する者、餓死する者も多く、山川家でも子どもたちを養い切れず、幼い捨松を箱館(北海道)へやることにした。箱館で、坂本竜馬の従兄にあたるギリシャ正教会の宣教師の家に預けられたとも、フランス人宣教師の家に預けられたとも言われている。
明治4年(1871)10月、新政府の開拓使がアメリカに派遣する女子留学生を募集した。開拓使は北海道開拓のために設けられた役所で、独自の学校も設立していた。将来的に女学校を併設する計画があり、女子留学生をその教師とすることを企図していた。
捨松の将来を考慮した山川家では、これに応募することを決めた。11歳の捨松は、ある日突然、長兄の浩からこの話を聞かされた。次兄の健次郎も、少し前に、開拓使留学生としてアメリカに赴いていた。
女子留学生は、旅費、学費、生活費などすべて官費で賄われるが、いたいけな少女が10年という長い留学期間を見知らぬ異国で過ごすとあって、応募者はわずか5人。その中に、捨松と、まだ7歳の津田梅子がいた。留学に先立ち、少女たちは皇后陛下から御沙汰書を賜っている。
《其方女子にして洋学修行の志誠に神妙の事に候追々女学御取建の儀に候へば成業帰朝の上は婦女の模範とも相成様心掛け日夜学問致事》
明治4年(1871)11月12日、岩倉具視や大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら新政府の要人たちで構成された岩倉使節団をのせた蒸気船アメリカ号が横浜港を出航した。この使節団には、大久保利通の次男・牧野伸顕をはじめとする59名の留学生が同行していた。5人の女子留学生もこれに連なっていた。
捨松の留学生活は、生来の明るい性格もあって、総じて、のびのびと充実したものであったようだ。ニューヘイブンのベーコン牧師宅に下宿し、家族の一員のようにして暮らし、勉強の傍ら、友だちと野原を走りまわったり木登りをして遊んだ。高等学校を卒えるとニューヨーク郊外にある名門女子大学ヴァッサー・カレッジへ進学、優秀な成績で卒業し学士号を取得した。卒業論文のテーマには国際政治を選び、卒業式では代表10人に選ばれて美しい着物姿で壇上に立ち、『イギリスの日本に対する外交政策』という題で演説をしたという。
大学卒業後、いったんベーコン家に落ち着いた捨松は、帰国までの2か月間、寸暇を惜しむようにコネティカット看護婦養成学校でも学んでいる。このことが、帰国後の捨松に、看護婦養成所の必要性を説かせ、日本初の慈善バザーの開催による資金集めをさせることになる。
ベーコン家には、捨松より2歳年長で、高校卒業後、独学でハーヴァード大学の検定試験を受け学士の資格を取得した才媛のアリスがいた。捨松とアリスは、生涯、堅い友情で結ばれる。
捨松には、将来、アリスを日本に呼んで一緒に自分たちの学校を開きたいという夢があった。看護婦養成所の実習の合間に、アリスに宛ててこんな手紙を書いている。
《私と一緒に日本のために働いて下さることを心から望んでいます。(略)あなたが英語と文学を教え、私は生理学と体育を教えることが出来ると思います。(略)もしかしたら、私は空中に砂のお城を作ろうとしているのかもしれません。卵からかえっていない雛の数を数えているのかもしれません。でも、こうして色々と将来のことを考えていると、楽しくて心が浮き浮きしてきます》
「鹿鳴館の華」と呼ばれて
明治15年(1882)10月、捨松は、高等学校を卒業した梅子とともに帰国の途につく。それぞれの卒業資格を手にするため1年の留学期間延長を行なっていたため、捨松は22歳に、梅子は18歳になろうとしていた。
ところが、帰国してみると、捨松たちを派遣した開拓使はすでになく、女子留学生の管轄は文部省へと移っていた。捨松は仕事の相談に文部省に出向くが、活躍場所は容易に見出せなかった。
そうしているうち、捨松の前に縁談が浮上した。捨松はすでに、当時の日本における結婚適齢期を過ぎようとする年齢だった。
熱烈なる求婚相手は、陸軍卿(のちの陸軍大臣)の大山巌だった。大山は捨松より18歳年上、すでに不惑を過ぎ、妻に先立たれ3人の娘を抱えていた。加えて出身は薩摩。西郷隆盛の従弟にあたり、なんと、会津戦争の折、会津城を取り囲み砲弾を打ち込んでいた敵軍の中に身を置いていた。
はじめ大山巌に捨松との結婚を勧めたのは、大山の岳父(亡妻の父)で西郷隆盛の盟友でもあった吉井友実らしい。勧められると、大山も、美しく知性豊かな捨松にすっかり惚れ込んでしまった。
旧敵との結婚話に抵抗感のある山川家を説得する使者として、西郷隆盛の弟の西郷従道が大いに働いた。やがて「本人が承諾するなら」というところまでこぎ着け、捨松は何度か大山とデートを重ねた末、プロポーズを受け入れた。
大山はやさしく穏やかな性格で、フランス留学の経験もあった。アメリカで学位まで取得し高い意識を持つ捨松のような女性を家庭に受け入れつつ、その社会的活躍の余地を許容する大きさが、大山にはあったのだろう。捨松の胸の中には、官費で留学させてもらったからには、社会にお返しをしなければならないという義務感がある。なまじの相手との結婚はできなかった。
この頃、捨松がアメリカのアリスに向けて書いた手紙にはこんな一文が読める。
《でもアリス、私はお国のために結婚するのではありません。私はこの結婚を日本のためばかりでなく、自分自身のためにも真剣に考えています。(略)自分も幸せになれその上お国のためにも役立つ道もあるはずだと思います》
結婚後まもなく鹿鳴館が開館した。日本政府には、欧米諸国の外交官らを招いて交流し不平等条約の是正につなげたいとの思惑があった。抜群のプロポーションと美貌、ドレスを着こなし華麗なダンスを踊り、流暢な英語を操って教養とユーモアのある会話を交わせる捨松は、いやが上にも周囲の注目を集め、「鹿鳴館の華」と呼ばれることになる。
捨松にとっても、鹿鳴館外交に貢献することは国のお役に立てることであり、それがひいては上流社会の婦人たちの地位向上にもつながるはずとの思いもあり、喜んで積極的に協力した。
女子英学塾に夢を託す
捨松が伊藤博文から華族女学校の設立準備委員を依頼されたのも、この頃だった。
明治18年(1885)10月、華族女学校が開校した。捨松はアリスを日本に呼び寄せ、1年間、講師をつとめてもらった。梅子も教壇に立った。が、そこはあくまで華族の令嬢の学び舎であり、捨松や梅子はもっと広く、若い一般女性を教育し自立へと導く教育機関をつくりたかった。そのため、梅子はアメリカへ再留学し勉強を重ねた。
捨松が40歳となった明治33年(1900)、宿願がひとつの形となる。梅子が塾長、捨松が顧問となって女子英学塾(現・津田塾大学)を立ち上げ、再びアリスを呼び寄せた。捨松はアメリカに寄付を募るなど、財政面のサポートにも力を尽くした。
明治37年(1904)2月、日露戦争が始まり、ほどなく大山巌は満州軍総司令官として出征することになった。大勢の死傷者が出て、捨松は日赤篤志看護婦人会理事として救護活動を支援する一方、遺族や傷病兵の慰問に取り組んだ。捨松の産んだ長男も、海軍士官として軍艦に乗っていて若い命を散らした。
大正5年(1916)12月10日、大山巌が75歳で病没した。葬儀は12月17日、日比谷の葬儀場で、国葬でとり行なわれた。葬儀の列は7キロにも及んだという。
夫の死後、捨松は公の場から身を退いた。ただひとつ、女子英学塾の理事の仕事にだけは、情熱を持ちつづけた。先述の通り、捨松は留学中から、アリスとともに自分たちの学校をつくりたいという夢を抱いていた。その思いを、今は梅子の女子英学塾に託そうとしていた。
塾の経営は順調だったが、梅子の健康状態に不調が出て、大正6年(1917)は入退院を繰り返すうちに過ぎた。大正8年(1919)1月、梅子はとうとう「塾長の任にたえられない」として関係者に辞意を表明した。早急に後継者を決める必要が生まれ、会議が開かれたが、後任人事は容易に決まらなかった。
この頃、東京ではスペイン風邪が猛威をふるっていた。大山の家でも書生や女中が次から次へと感染した。孫たちへの感染をおそれた捨松は、家族連れでしばらく沼津へ転地することにした。だが塾長の後任人事が気にかかった捨松は、まもなく単身で東京へ戻る。
当初の心配通り、帰京した捨松は風邪に感染し高熱を出してしまったが、じっとしてはいられなかった。体具合が少し落ち着くと、後任の有力候補の辻マツのもとを訪ね、情熱を傾けてかき口説いた。マツも捨松の熱い思いを受けとめ、正式な後任が決定するまでの塾長代理という条件つきながら、ついに引き受けることを承諾した。2月5日、辻マツの塾長代理への就任式が行なわれた。捨松は大いに安堵した。
ほっとして疲れが出たのか、この翌日、捨松は喉に痛みを覚え再び床に臥した。安静にしていったんは快方に向かうかに見えたが、また高熱が出て、肺炎を併発した。2月18日朝、容態が急に悪化して呼吸困難となり、午後4時20分、臨終を迎えた。59年に満たない生涯だった。
2月22日の告別式には、捨松を姉のように慕い頼りにしていた津田梅子も、病躯をおして参列した。捨松の遺骸は翌朝、上野から汽車にのせられ西那須野へ向かった。西那須野の墓所には夫の魂が眠っていた。大山巌は、生前愛し、別荘を建てていた西那須野に永眠することを望み、「別荘の北にある丘に檜林を背景にして自分の骨を埋めよ」と遺言していた。捨松はその傍らに、寄り添うように埋葬されたのである。
【主な参考文献】
久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(中公文庫)、ジャニス・P・ニムラ著、志村昌子・藪本多恵子訳『少女たちの明治維新』(原書房)、植松三十里『時代を生きた女たち』(KADOKAWA)
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com











