荒俣宏さん(作家)は、水族館の成り立ちや歴史にもめっぽう詳しい。手元には何の資料も置かず、その口から歴史が流れるように繙かれる。
明治初頭、西洋から入ってきた水族館の文化は、興行から科学的な展示へ変化を遂げながら、たくさんの人を魅了する施設に発展してきた。日本の水族館文化の変遷を荒俣さんに解説してもらった。

(トロカデロ水族館〈パリ万博〉明治11年)
1878年のパリ万博で設けられたトロカデロ水族館。洞窟を模した館内には岩の間に水槽が設置され来館者の目を楽しませた。国立国会図書館「近代技術の展示場」サイトより転載
──日本における水族館の始まりはいつのことでしょうか。
「水族館は文明開化のシンボルのひとつなんです。明治政府になって西洋と付き合うようになったのが1860年代末からですね。水族館の始まりは、ほぼ同時代の1853年にロンドン動物園内にできた『フィッシュハウス』です。当時、西欧諸国で“万博”が開催されるようになると、水族館はイベントの目玉施設になります。1878年に開催されたパリ万博では、海底が、海の断面が目の前にある、これはえらいこっちゃと水族館ブームが起きます」
それが明治の日本に伝わってくる。日本初の「水族館」は明治15年(1882)に、上野動物園内に設置された。
「観魚室という名で『うおのぞき』と呼ばれていました。水の循環装置もなく通路は暗闇で物騒でした。おまけに開設時は海水魚が展示できず、金魚や鯉だったら、わざわざ水族館に行く必要はなかった」
教育と風俗が一体化
明治18年(1885)、浅草に国内で2番目の水族館が開館。海底を模した洞窟のような展示室では、岩の間から魚を眺められたという。見せる展示の始まりだ。
明治30年(1897)に、和田岬(神戸市)で開催された第2回水産博覧会の付属施設として、水族館が開館、本格的な水循環装置を備え近代水族館の嚆矢となった。

明治28年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会で作られた「水族室・水産館」。淡水魚の様子を側面から見ることができた。
国立国会図書館「近代技術の展示場」サイトより転載
浅草にはそののち私設の浅草公園水族館が開館(明治32年)する。
「最初は大入りだったけど、数年で飽きられ、昭和初期になんと2階にミュージックホールを作りレビューを始めちゃった。水族館は教育施設なんで修学旅行生なんかも行くわけです。すると、みんな水槽展示を通り抜けて2階に行っちゃう(笑)。教育と風俗が一体化した施設でした」
同館は娯楽施設の代名詞となり、軽演劇のエノケン一座も出演した。

明治32年に営利を目的とする私設水族館が浅草に開館。歓楽街・浅草の娯楽施設として長く親しまれた。
『風俗画報』より。
その後、大阪、京都、名古屋など全国に水族館が登場するが、現在のような水族館が誕生するのは、戦後まで待たなければならない。
科学的な展示施設への転換
「戦後の水族館ブームは、昭和29年(1954)開館の江の島水族館(神奈川県、現新江ノ島水族館)から始まりました。標本展示や“魚の病院”などもある科学的な水族館です。展示も素晴らしかったので評判になりたくさん人が来た。2階にレビューがなくても人は来ることが実証されました」

「日活」の元社長、堀久作氏が開設。循環式濾過装置や水温調節機を備え、数百種の魚類を飼育展示、博物館相当施設に指定された。写真/新江ノ島水族館
水槽展示も進化を見せる。
「昭和39年(1964)に、大分市の元市長だった上田保氏が作ったのが、大分生態水族館(現大分マリーンパレス水族館「うみたまご」)です。水槽はドーナツ型で、中で海水を回すわけです。魚の運動にもなりますしね」
ドーナツ型の水槽は4つに区切られ、各区画に2基の濾過槽があった。当時としては画期的な回遊水槽として話題となった。

昭和39年に開業の大分生態水族館では、水圧に耐えるガラスを英国から輸入し全長61mの回遊水槽を設置した。写真/大分マリーンパレス水族館「うみたまご」
明治期に興行から始まった日本の水族館は、科学的な展示と水生動物の研究施設へと転換してきた。
「江の島と大分の水族館の登場は、科学と展示という面で大きな転換点でした。繁殖や環境保全の研究までも担う、現代の水族館に果たした役割は大きいと思います」
あらまた・ひろし
1947年、東京生まれ。博物学者、作家。少年時代より海洋生物に惹かれ、関連図書は多数。代表作に350万部を超え、映画化もされた小説『帝都物語』などがある
取材・文/宇野正樹
※この記事は『サライ』本誌2026年6月号より転載しました。












