文/鈴木拓也

画像はイメージです。

人の内面にあるもので、ネガティブな感情ほど厄介なものはないだろう。

どうにもならない不安、怒り、悲しみなどを手なずけるべく、人は、太古の昔から様々な方法を編み出してきた。それでも、現代の世界では、5億人以上が不安や鬱に苦しみ、そのために生じる経済的損失は年間1兆ドルに及ぶという。

有効な方法として、「ある感情の状態から別の状態へ優雅に移行(シフト)する」のを提唱するのは、ミシガン大学心理学部のイーサン・クロス教授だ。クロス教授によれば、その方法にはいくつかのバリエーションがあり、いずれも感情の「シフター(変換装置)」を用いることで可能になるという。そして、具体的なやり方を著書『Mood Shift(ムード・シフト) 「感情」をコントロールし、気分に振り回されないための科学的根拠に基づくテクニック』(鬼澤忍翻訳、東洋経済新報社 https://str.toyokeizai.net/books/9784492048375/)で説いている。

ポジティブ思考の負の側面

感情のコントロール法と言えば、ポジティブ思考がよく引き合いに出される。

クロス教授は、これについては、状況によっては負の側面があると言う。例えば、パートナーの浮気や、劣悪な労働環境に直面した場合、ネガティブな感情をひっくり返しても、単に「苦しみが長引くことになりかねない」。この場合、パートナーと別れる、退職するという行動が問題解決のカギとなりうる。

そもそもネガティブな感情は、「適度に経験されるかぎり、われわれの人生にとって不可欠なものだ」とも指摘している。これは、「進化と経験によって形づくられた力強い知恵」であり、むしろ「目標達成を助けるもの」だという。例えば、後悔の念は、同じ過ちを二度としない方向へと促すし、怒りは脅威に対処するのに役立つ。だから、ネガティブな感情がわき起こったら、ひとまず敬意をもって受け入れる。健全なやりかたで取り扱えれば、それに越したことはない。

感覚的な経験によってシフトする

クロス教授が、感情をシフトする方法として最初に挙げるのが、感覚的経験を利用するものだ。

クロス教授のもとで研究に励む博士課程の男性にとって、それはパンづくりである。パン生地をこねるときの皮膚感覚、漂う香り、それに味。こうした「瞑想的な行為」に伴う感覚を味わうことで、彼はストレスや悪感情を制御する。

クロス教授にとっては、カーラジオから流れてくる音楽がそれにあたる。ロックバンドのジャーニーの代表曲「Don’t Stop Believin’」が聞こえてきただけで、不機嫌な気持ちが消失した自身のエピソードを記している。そしてもう1つが、チョコレートピーナッツバターカップを食べることだそうだ。この処方箋は、誰にとってもわかりやすい。しかし、味覚を喜ばせる方法は、えてして健康リスクを伴うため、クロス教授はめったにその手段には訴えない。

感覚的経験によるシフトは、とっつきやすくて、手っ取り早く効果を得られるという利点がある。反面、その内容によっては、別のトラブルを招く可能性があることには注意を要する。

居場所の変更がシフターとなることも

今いる場所を変えることで、感情をシフトできることもある。本書には、その実例として2人の人物が出てくる。

1人は、イェール大学のローリー・サントス教授だ。多くの講義を受け持ち、学寮長を兼任し、ポッドキャストも始めて多忙さが極限に達したところで、感情面の危機が訪れる。仕事の量に圧倒されて、苛立ちがつのり、怒りっぽくなり、自信を失い、明らかに限界だと悟ったのである。

サントス教授がとった対策は、長期の無給休暇を得て、若い頃に住んでいたマサチューセッツ州ケンブリッジに一時的に移ることであった。大半の責務を肩からおろし、又借りした小さな部屋で寝起きし、なつかしい町の匂いと音に触れた。やがて、「バランスとコントロールの感覚を取り戻し」、大学に戻った。

もう1人は、2004年にイラクに派遣された、29歳の司令官ショーンだ。現地で10か月過ごした後、一時帰国したが、出迎えた妻は、幼い子を彼に引き渡して去っていった。ショーンが不在の間、妻は別の男性と恋に落ちていたのである。ショーンは、生まれてこのかた感じたこともない、悲しみと絶望の入り混じった感情の嵐に飲み込まれた。

その時、ショーンの母親から電話があり、こちらに来るようすすめられた。実家に到着し、短い昼寝のつもりが15時間以上も眠り続けた。目覚めると、少年時代を過ごした部屋を見渡して、「前に進む道を見つけるための安心感を与えてくれた」という。感情が徐々にもとに戻り始め、離婚、再婚を経て、今は大学で教鞭を執っている。

クロス教授は、このように愛着ある場所にいることが、感情の暴風雨を晴らすきっかけになると示唆している。心理学の用語で「場所愛着」と呼ぶが、それは昔住んだ地域とは限らないし、遠くへ引っ越さなければならないわけでもない。今の自宅やオフィスにいたまま、感情をシフトできると言う。ただ、以下の事柄を検討し、おそらく多少の改造が必要となるかもしれないとも。

・空間を少し整えて感情経験を形づくるために――今日、いますぐに――できることは何だろう?
・ストレスや不安のような感情的反応を弱めるために排除できるものは何だろう?
・平静や喜びのような感情的反応を強めるために付加できるものがあるとすれば、それは何だろう?
(本書217より)

また、それ以外の近場で、「感情のオアシス」と呼べる所はあるだろうか。日々の予定を組む際、マラソンでいえば給水所のような、そうした所に行くことを検討する価値はある。

本書では、他にも注意力のシフター、人間関係のシフター、文化のシフターなど、局面に応じた様々なシフターが紹介されている。ただ、どんな場合にも効く万能のシフターはなく、「前回はあれ、今回はこれ」というふうに試行錯誤はあるかもしれない。それでも、「シフターはあなたの力になる」と、クロス教授は力説する。人生をもっと有意義なものとするためにも、このツールを使ってみることをすすめたい。

【今日の健康に良い1冊】
『Mood Shift(ムード・シフト) 
「感情」をコントロールし、気分に振り回されないための科学的根拠に基づくテクニック』

イーサン・クロス著、鬼澤忍翻訳
定価2200円
東洋経済新報社

文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。

 

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