文/濱田浩一郎

天下人・徳川家康の最後の日々とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、徳川家康を松下洸平さんが演じています。家康は「たぬき親父」と称されて久しいですが、そうした家康の腹黒さもドラマでは描いているように思います。さて「豊臣兄弟!」では描かれないでしょうが、家康は秀吉の死(1598年)から18年後(1616年)に死を迎えることになります。では家康はどのように死を迎えたのでしょうか。家康の「終活」について見ていきましょう。
元和2年(1616)正月21日、鷹狩り好きの家康はこの日も田中(静岡県藤枝市)に鷹狩りに出かけますが、突然、体調不良となります。『徳川実紀』(19世紀前半に編纂された徳川幕府の公式史書)には、田中で突如、体調を崩した家康は、先ず薬を飲んだとあります。しかしすぐに駿府城には戻りませんでした。薬を飲んで田中で少し休めば体調は回復すると考えたのでしょうか。家康の急病は急ぎ、江戸城の徳川秀忠(2代将軍)のもとにも知らされました。薬を飲んで体調が少し落ち着いた家康は、1月24日に駿府に戻ることになります。「駿府へ還御あるべしと仰いださる」と『徳川実紀』にありますので、家康自らが駿府へ帰ると言い出したということです。
駿府に帰った家康ですが、また体調が悪くなることもありました。が、2月3日には体調が「平常」になったということで皆、喜んだとのこと。2月4日、家康は病床に藤堂高虎・金地院崇伝らを呼んで「御物語」、つまり色々と話し合ったようです。この話し合いの席ではある料理が振る舞われました。それは「納豆汁」です。家康と高虎らは納豆汁を食しながら語り合ったのです。このとき、家康の体調は「平常」とのことですので、家康も納豆汁を食べたと思われます。ところが2月22日には家康の体調は悪化しました。そうしたときにお見舞いにやって来たのが、伊達政宗でした。3月5日には「大御所(家康)御けしき(御気色)は更に重く見え」とありますので、更に病状は悪化したようです。
このとき、家康の側室・阿茶局が御前にて我が子・松平忠輝(家康6男)の勘当を解き、会ってやってほしいと家康を説得します。が、家康は大坂の陣において忠輝が犯した不始末(軍事を怠り、敵の旗も見なかったばかりか、将軍の家人を斬り殺した)を挙げ、許すことはできないと伝えるのでした。忠輝は家康の死後、伊勢国朝熊に配流されますが、それも家康の「御遺言」だったとのこと。前述のようなことを為した忠輝ならば、自分(家康)が死んだ後、どのようなことをするかわからぬと家康は警戒したのです。
死を目前にした家康は罪人を試し斬りした刀をなぜ振り回したのか?
体調が悪化していた家康ですが、3月19日には「大に御快」と体調が回復。粥を食べ、歩くこともできたので、皆、大いに喜んだとのこと。3月には伊達政宗がまた家康を見舞いますが、そのとき、家康は政宗を布団の側まで呼んで「将軍家(秀忠)のことを頼む」と懇願したと言います。豊臣秀吉は幼い我が子・秀頼を頼むと諸大名に懇願し死んでいきましたが、それを彷彿とさせます。家康は形見として政宗に清拙(鎌倉時代後期の臨済宗の僧侶)の墨蹟を与えたので、政宗は家康に大いに「感謝」し、落涙したとのこと。家康は既に自分の死が近いことを悟っていたのでしょう。
4月1日になると、病床に堀直寄を呼んで「この度の病は回復することはない」、つまり自分はもうすぐ死ぬだろうということを告げます。そして自分が死んだ後に「国家の一大事」(兵乱)が起こった際には、先陣は藤堂高虎、二番は井伊直孝にせよと命じています。家康は自らが死んだ後に将軍家に叛逆する大名が出てくると用心していたのでした。同月3日にも家康は「御遺言」を残したと言います。その頃、家康は既に食事も喉を通らない(御絶食)状態となっていました。よって、日々、病床に諸大名を呼ぶなどして遺言していたのです。
4月15日には都筑景春を病床に呼び、家康は変わったことを命じています。「三池の御刀」で罪人を試し斬りせよというのです。景春は(一体、何なんだ)と思ったかもしれませんが、家康の命令に従い、罪人を試し斬りします。そしてその刀の切れ味は頗る良かったこと、名刀であることを家康に報告するのでした。すると家康は罪人を斬ったばかりの刀を持ち、2・3度振り回した上で「この刀をもって、永く子孫を鎮護する」と言い放ったということです。しかもそのときの家康の顔は、死の病に冒されながら、麗しいものであったというから驚きです。動乱の世を生き抜いてきた武将の価値観といえども、現代人から見たら信じられないものです。罪人を斬った刀を振り回した2日後(4月17日)、家康はこの世を去ります。遺体は遺言通り、久能山に葬られました。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











