はじめに-斎藤利三とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する斎藤利三(さいとう・としみつ、演:内藤剛志)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。一般には、明智光秀(演:要潤)の重臣、そして後に徳川三代将軍・家光の乳母となる春日局(かすがのつぼね)の父として知られています。

本能寺の変では光秀に従って挙兵し、山崎の戦いでも奮戦しましたが、敗北ののち捕らえられ、処刑されました。その生涯は、主君である明智光秀の運命と強く結びついています。この記事では、斎藤利三が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦働きに加え、光秀の領国運営にも尽くした明智家の重臣として描かれます。

斎藤利三
斎藤利三

斎藤利三が生きた時代

斎藤利三が生きたのは、美濃(現在の岐阜県南部)や近畿一帯の勢力図が大きく塗り替えられていった時代でした。斎藤氏、織田氏、武田氏、そして毛利氏などがしのぎを削る中、織田信長は急速に勢力を拡大し、天下統一へ向けて歩みを進めていきます。

そうした乱世の中で、利三は一つの主家に長くとどまるのではなく、斎藤義龍(さいとう・よしたつ)、稲葉良通(いなば・よしみち)、織田信長、そして明智光秀へと仕えた人物でした。

やがて信長の家臣団の中でも有力な一人だった明智光秀が、本能寺の変を起こします。斎藤利三は、この事件によって歴史にその名を強く刻むことになりました。

斎藤利三の生涯と主な出来事

斎藤利三の生年は天文3年(1534)、もしくは天文7年(1538)といわれています。天正10年(1582)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

出自には諸説がある

斎藤利三は美濃出身の武将で、通称は内蔵助です。ただし、その生年や家系には諸説があります。『国史大辞典』(吉川弘文館)によると、生まれは天文3年(1534)とも天文7年(1538)とも考えられるとされ、父についても伊豆守某、あるいは伊豆守利賢など、はっきりしません。

母にしても明智光秀の妹とするもの、親順の女とするものなど諸説あります。また妻についても稲葉良通の女とするもの、姪とするものなどがあり、詳しい事情はよくわかっていません。

こうした点から見ても、利三はきわめて有名な人物でありながら、その生い立ちにはなお不明な部分が多い武将だといえるでしょう。

斎藤義龍、稲葉一鉄、織田信長に仕える

利三は、はじめ斎藤義龍に仕え、その後は稲葉良通に属しました。やがて織田信長にも仕えたとされています。

明智光秀の家老となる

『世界大百科事典』(平凡社)によると、天正8年(1580)に伯父に当たる光秀に迎えられ、1万石を与えられ、家老として丹波(現在の京都府の中部と兵庫県の東部) に居しました。つまり、利三は光秀の重臣として政治・軍事の両面を支える立場にあったのです。

明智光秀
明智光秀

このことは、黒井城での利三の動きからもうかがえます。黒井城落城後、城には利三が入り、天正8年(1580)7月23日には、白毫寺(びゃくごうじ)の僧たちに「当陣人足」を免除する下知状を出しました。

上記から、利三が現地支配や軍事動員に関わる実務を担っていたことがわかります。光秀の家中において、利三が重要な位置を占めていたことを示す一例といえるでしょう。

本能寺の変に加わる

天正10年(1582)6月2日、明智光秀は京都・本能寺にいた織田信長を急襲しました。いわゆる本能寺の変です。斎藤利三は、この挙兵に参加した重臣の一人でした。

『世界大百科事典』(平凡社)によると、利三は光秀から事前に本能寺襲撃を打ち明けられていた老臣の一人とされています。光秀にとって、利三がそれほど信頼の厚い家臣だったことがうかがえます。

本能寺の変の原因についてはさまざまな説がありますが、『日本大百科全書』(小学館)には、光秀が利三を召し抱えたことをめぐって「利三を戻してほしい」という稲葉良通と争論になり、それがもとで信長から折檻を受けたことが、遺恨説の一つとして挙げられています。ただし、これもあくまで多くの説の中の一つです。

明智越え
光秀は1万5千の兵を三段に備えて、亀山から明智越、唐櫃(からと)越、老ノ坂越の三面から本能寺に向かったといわれている。

山崎の戦いで奮戦し、敗れる

本能寺の変ののち、光秀は急いで政権掌握を進めますが、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉と山崎で激突します。斎藤利三はこの山崎の戦いにも従軍し、奮戦しました。

しかし、戦局は光秀方に不利に進み、最終的には敗北します。

山崎合戦之地
山崎合戦之地

敗戦後に捕らえられ、処刑される

山崎の戦いに敗れた利三は、近江(現在の滋賀県)の堅田で捕らえられました。その後、天正10年(1582)6月17日に処刑されます。

利三は京都の六条河原で斬られ、その首級は光秀の首級とともに本能寺に梟され、さらに屍は光秀とともに粟田口で磔にされました。その後、利三の遺骸は京都・真如堂の東陽院に葬られたと伝えられています。

春日局の父として後世に名を残す

斎藤利三は、本能寺の変と山崎の戦いで命を落とした武将ですが、その名が江戸時代以降にも強く知られるようになった大きな理由の一つは、末娘が春日局であったことです。

春日局はのちに江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥で大きな影響力を持ちました。

まとめ

斎藤利三は、本能寺の変にも深く関わった人物です。そして山崎の戦いで敗れ、処刑された最期は、主君・光秀と運命をともにした重臣らしいものでした。

しかし利三の名は、それだけで終わりません。娘の春日局が後に徳川家光の乳母となったことで、利三は戦国の動乱と江戸幕府の時代にも血脈を残した人物として記憶されることになりました。

本能寺の変の中心人物として語られることの多い明智光秀に比べると、斎藤利三はやや脇役のように見えるかもしれません。けれども、その生涯をたどると、光秀の信任を受けて実務を担い、最後までともに戦った重要な家臣だったことがよくわかります。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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