文/濱田浩一郎

羽柴秀吉が主君・織田信長に届けたお歳暮とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で主人公・羽柴秀長の兄・秀吉を演じるのは池松壮亮さんです。秀吉は主君・織田信長に仕え、長く戦陣の日々を送っていましたが、天正9年(1581)12月20日、姫路を立ち、信長がいる安土に向かいます(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の伝記『太閤記』)。歳暮のご挨拶に参上するためです。秀吉はいきなり信長のもとを訪問したわけではなく、事前に菅屋九右衛門尉や堀久太郎を通して「歳暮の御礼」のために伺うことを信長に通知していました。
その通知を受けた信長は意外なことと驚いたようです。その上で「(秀吉は)今年は遠方に軍を進め、城を落とし、逆徒を退治した。打ち続き苦労したわけだが、それを物ともせず、安土を訪れるとは殊勝なこと。両人は筑前守(秀吉)にそのことを伝えよ」と述べたと言います。また信長はこれまでの秀吉の武功を振り返り、すこぶるご機嫌だったとのこと。そのこともあってか、信長は「最早、昔の藤吉郎(秀吉)ではない。数か国を治める諸侯である。明朝、馳走する故、その積もりで帰って来い」との言葉も発したとされます。朝ご飯を振る舞おうと言うのです。
当然、秀吉は主君・信長の言葉を聞いて、感謝感激しました。「まことに恐れ多きお言葉」と恐縮したともあります。そして主従は久方振りの対面を果たします。秀吉を見た信長は「久しや」(久しぶりじゃ)との言葉を再三、発したと言います。そしてその後、「暑い季節から寒い季節まで因幡国や伯耆国にいて長く苦労したので、老い衰えているかと案じていたが、かえって若やいだではないか」と秀吉に語りかけました。秀吉は信長の有難い言葉を聞いて、涙で袖を濡らすほどに感激したと『太閤記』にはあります。秀吉は両国(因幡・伯耆)の様子を詳しく信長に報告。その間、信長からは杯を下され、主従は親しく懇談したのでした。信長からは「明朝、登城するように」との言葉があり、秀吉は宿所に戻ります。
秀吉は歳暮ということで、信長のもとを手ぶらで訪れたのではありません。多くの歳暮の品(献上品)を持参していたのです。秀吉らは宿に帰り、準備に追われます。余りにも献上品が多いため、間違いのないように台に載せる準備が先ず必要でした。そしてそれらを運び出して、山の麓に並べておく必要もありました。同書には徹夜の作業だったとあります。秀吉は献上品の係の者たちに「信長公への進物は道の左に、御若君らへの進物は右に、その他の進物はこうせよ」と細かく命じてから登城していきます。献上品を積んだ台は「二百余」にも及んだとのこと。左右に並べた台が御門を入っても、後ろの台はまだ山の下にあるとの有様だったと言いますので、如何に献上品が膨大であったかがわかります。
秀吉からの膨大なお歳暮を見た信長が発した言葉とは?
信長は安土城の天守からこの様子を見て「あれは大気者(小さなことにはこだわらない度量の広い人)の筑前守が運ぶ進物の台であろう。見よや、者ども」と打ち笑ったとされます。運ばれてくる凄まじい数の台(進物)を見た他の人々は「このような夥しい進物はこれまで見たことがない」と肝を潰したと言います。その言葉を聞いた信長も「山下から山上まで台の続く様はわしも見たことがない。あの大気者こそ、天下無双の男だ」と秀吉を大いに称賛しました。続けて「あの大気者なら支那や天竺を退治せよと命じても嫌とは言うまい」と信長は語ったと『太閤記』は記します。
この秀吉によるお歳暮エピソードは1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」(主演・竹中直人)でも「史上最大のお歳暮」(第26回)との題で描かれていました。『太閤記』のお歳暮の逸話ですが、同書にのみ掲載されているわけではなく『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)にも収録されています。大変な数の進物に誰もが驚嘆したとあります。信長からお褒めの言葉を頂戴し、茶の湯道具12種を褒美として賜った秀吉は12月22日に播磨国に戻ったと『信長公記』には書かれています。お歳暮のエピソードは秀吉の気宇壮大さを示すものと言えるでしょう。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











