どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。彼はなぜ、朝鮮を攻めたのだろうか。
「中国・明との交易を足がかりに西洋諸国からの脅威に対抗するためです」藤田達生さん(三重大学特任教授)

問い合わせ先:佐賀県立名護屋城博物館、電話:0955・82・4905
写真/佐賀県立名護屋城博物館
秀吉が最晩年に展開した文禄の役と慶長の役(※1)。この朝鮮出兵はどのような戦いだったのか。前出(
https://serai.jp/hobby/1257286)の藤田達生さんは「それを解くキーワードは銀です」という。
「15世紀からポルトガル、スペイン、オランダなどの西洋諸国がアフリカ、アジア、南北アメリカに進出します。アジアでは中国明が巨大な国でした。絹や香料の世界的交易が高まり、中国を中心に大きなマーケットが生まれました。この新しい市場をめぐって、世界の再編が進んでいくのです」
中国では古代以来、交易には銅銭を使っていた。16世紀に入ると銀による納税を認め、銀銭の取引が急増。国内では銀が不足するようになった。
日本では大永7年(1527)、石見銀山が発見された。秀吉が生まれる10年ほど前のことだ。
石見では灰吹法(※2)という新しい精錬技術が確立され、産出量が飛躍的に増大。またスペイン支配下の南米アンデス山中のポトシでも銀山の開発が進み、世界中から大量の銀が巨大市場の中国へと流入しはじめた。
「秀吉は国産の銀を武器に明に進出し、中国での貿易戦争を支配しようとしたのです。そしてさらに重要なことは日本の国力を強化し、押し寄せてくるヨーロッパ諸国からの荒波を防ぐことだったのです。
その頃日本では、各地の大名が自分たちの土地を守ることしか考えていなかった。それに危機感を感じたのが信長であり、信長の意図を汲み取った秀吉なのです。幕末維新の状況と似ていますが、世界的な視野に立たないと秀吉の意図を見落としてしまいます」
秀吉は東アジアの統治方式として「三国国割構想」を公表した。後陽成天皇を明の首都・北京へ移し、朝鮮には秀次の弟・秀勝を据える。その上で自分は、当時の中国最大の交易都市・寧波に拠点を築くという一大構想だ。奇想天外な発想だが、これも信長の発案をヒントにしたともいわれている。
肥前名護屋城の賑わい
天正18年(1590)、秀吉は朝鮮からの使者を聚楽第に迎え、「征明嚮導」(明を征圧するための先導役)を朝鮮側に求めた。拒否されることを怖れた対馬藩では、「征明嚮導」を「仮途(道)入明」(明に進軍するための道を貸してもらいたい)と書き換えた。
しかし朝鮮側は拒否。ついに朝鮮との戦いは不可避となった。
秀吉はこの「唐入り」計画を早くから進めていた。天正20年(1592)、いまの佐賀県唐津市の半島の先端部に出兵の拠点として肥前名護屋城を築城。その城下町の様子が『肥前名護屋城図屏風』に詳細に描かれている。
城の広さは約17ha(東西約600m、南北350m)に及び、本丸にそびえる天守は五重七階。その周囲に160ほどの大名が陣を構えていた。屏風には武士や町人にまじって明からの使節団約40名、ポルトガル人と思われる南蛮人が描かれている。まさに、突然生まれた国際的城下町である。
※1:朝鮮では壬辰倭乱、丁酉倭乱と呼んだ。
※2:鉛に溶かした貴金属(金や銀)を熱して鉛だけを酸化させて除去し、貴金属を抽出する精錬法。
出兵の拠点・肥前名護屋城を造営

写真/佐賀県立名護屋城博物館
秀吉の三国国割構想

傷跡を残した文禄・慶長の役
家康の天下で国交修復
文禄の役は天正20年(1592、12月に文禄に改元)4月に始まった。先陣を務めたのは小西行長と加藤清正。秀吉軍は当初圧倒的な強さで北上。わずか半月で首都漢城(現・ソウル)を落とした。国王一族は早々と城を抜け出し、さらに北方の開城、平壌へと逃亡。遂に明が参戦した。
「朝鮮各地では義兵が蜂起し、秀吉軍を悩ませます。海上では李舜臣率いる朝鮮水軍が日本の軍船を撃破。翌年、明との休戦交渉で、秀吉軍は漢城から撤収しています」と藤田さんは語る。
蔚山城の攻防
慶長の役は、慶長2年(1597)に始まった。文禄の役の講和交渉の破綻が原因とされる。秀吉は文禄の役を敗戦とはとらえていなかった。むしろ、勝利した日本が朝鮮半島の一部を割譲すべきという前提に立っていた。
明との交渉は決裂したが、加藤清正や小西行長は朝鮮との和平に尽力。しかしそれも破綻し、朝鮮への再派兵が決まった。
秀吉軍は先の出兵のときに、兵站基地と補給路確保のために半島の南部一帯に20から30くらいの倭城を造営していた。
そのひとつ、蔚山城は清正が縄張(設計)した城だ。寒い冬場の中、わずか40日ほどで工事は終わるところだった。しかし完成直前、明と朝鮮の連合軍約6万の軍勢に包囲されてしまった。
そのとき清正自身は30kmほど離れた西生浦城に留まっていた。すぐに救援にかけつけたが、城内にはまだ食糧の備蓄がない。しかも指揮系統が明確ではなかった。
深夜に攻撃を受けることもあった。日本軍も夜討ちをかけ、耐えること10日間。黒田長政らの援軍も得て、やっと危機を脱した。
そのときの修羅場を描いた『蔚山城合戦図屏風』が伝わる。敵味方の兵力差は歴然としており、ネズミ一匹も逃さないほどの包囲網だ。明・朝鮮軍にも大量の死者がでて明側は和議を申し入れたが、清正はそれを拒否したという。
慶長の役は初戦から泥沼の戦況だった。開戦翌年の8月、秀吉が大坂城で逝去。豊臣政権は和議締結の使者を送ったが、全軍が帰還したのは12月の末である。
秀吉の朝鮮出兵は日朝間に深い傷跡を残した。豊臣家を滅ぼし天下人となった徳川家康は、秀吉の政策をどのように見ていたのか。
「家康は貿易第一主義の立場。国力を疲弊させる侵略戦争には否定的でした。日朝の関係回復を優先し、日本に大量に連行された朝鮮人捕虜を返還しています。朝鮮からは多くの通信使が日本に派遣されました。
歴史はこうして動いていくのです。信長・秀吉・家康、この3人の天才が世界の変革期に現れたのは、日本にとって幸運だったといえます」(藤田さん)
“唐入り”の重責を担った大名
加藤清正(1562〜1611)

小西行長(1558〜1600)

世界を見据えて海に漕ぎ出す

右が日本列島。福井県立若狭歴史博物館蔵
写真/福井県立若狭歴史博物館
清正軍は蔚山倭城で約6万の軍勢に包囲された

写真/九州国立博物館 撮影/落合晴彦
解説 藤田達生さん(三重大学特任教授)

取材・文/田中昭三
※この記事は『サライ』本誌2026年2月号より転載しました。












