文人との交流と誰袖の身請け
宗次郎は文芸にも造詣が深く、大田南畝をはじめとする多くの文人たちと親交を持ちました。とりわけ南畝にとっては宗次郎の存在が精神的・経済的支えとなり、いわばパトロン的存在でもあったようです。

一方で、宗次郎の吉原での遊興も有名でした。大文字屋(だいもんじや)の花魁・誰袖(たがそで)を、当時としては破格の1,200両で身請けしたという話は、当時の人々の間でも話題となったといいます。
失脚と悲運の最期
しかし、天明6年(1786)田沼意次の失脚とともに、宗次郎の運命も急変します。天明の飢饉に際し、幕府が買い上げた米をめぐって不正を行ったとされ、寛政の改革の中で処罰対象となり、最終的には死罪に処されました。
大田南畝が文筆活動をいったん断念した背景の一つには、宗次郎の死が影を落としていたといわれています。それほどまでに、宗次郎の失脚は文人たちにとっても衝撃的な出来事でした。
まとめ
土山宗次郎は、田沼時代の先進的な政策の現場を支えた優秀な官僚である一方、華やかな交友と贅沢な暮らしぶりでも知られる人物でした。けれども、その後の政治改革の中で、罪に問われ命を落とすことになります。まさに、時代の潮目に翻弄された数奇な生涯だったといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本古典文学全集』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
