汽車はなぜ海上を走ったのか

日本で最初の鉄道にもかかわらず、なぜ海上に線路が敷かれたのでしょうか。当時は鉄道の建設に反対する動きが少なくなかったようです。とりわけ高輪周辺には軍用地が多く、国防上の要衝だった高輪周辺の土地を兵部省(後の陸海軍)が引き渡さなかったことがその理由、といわれてきました。これが定説とされていますが、今尾さんはこの説に疑問を呈します。

「巨額な資金を要する鉄道の建設に軍部が反対したのは事実です。欧米列強の日本進出に脅威を感じた明治政府は、富国強兵を優先したからです。でも、それを理由に海上に築堤を設けたと考えるのは短絡的ではないでしょうか」。

高輪付近を南北に貫く国道15号は、かつての東海道と重なり、東側に海岸線が並行して延びていました。幕末にはすでに、街道沿いには立錐の余地もなく住居が立ち並んでいました。

「そこに鉄道を通すとなると、立ち退きなどで莫大な補償問題が発生します。しかも、まだ得体の知れない鉄道を建設することに、周辺の理解が得られたとは思えません」と今尾さんは続けます。

鉄道開業後に東京府が作成した東京市街の沽券(こけん)地図(明治6年)。高輪の海に線路が描かれている。沽券とは土地の売買に関する証文のこと。地図には売買価格も記されている
東京都公文書館蔵
沽券地図を拡大すると、東海道沿いに住宅が密集しているのがわかる。当時は、公益のためでも政府が強制的に土地を買い上げることはできず、鉄道用地を確保するのは容易ではなかった

早期開業を優先し海上への敷設を選択

高輪ゲートウェイ駅周辺の空撮。土がむき出しになった再開発エリアの西端(写真中央)に延びるのが高輪築堤の遺構 写真提供/吉永陽一

まだ誰も鉄道を見たことがない時代のことです。日本初の鉄道が通じた新橋駅~横浜駅間は、明治政府における鉄道推進派の大隈重信と伊藤博文が、鉄道がどのようなものなのかを世に広く知らしめるためにデモンストレーションとして建設が進められた、ともいわれています。その有用性を理解させるため、面倒な事態を避け、一刻も早い開業が優先されました。

今尾さんは「推進派は陸地に通すことにこだわらなかったのではないでしょうか。しかも高輪の海は遠浅ですから、築堤をつくることは技術的に難しくないと判断したはずです」と推測します。

嘉永6年(1853)、ペリー来航に備え、江戸を防衛する目的で品川台場が設けられました。建設にあたり、品川の八ツ山や御殿山を切り崩し、その土砂で海上が埋め立てられました。初代品川駅も埋め立て地の上に開業しました。

「遠浅の海に建設された高輪築堤にも、品川台場を築造した際の技術が応用されていると想像できます」。この見立ては地形図に詳しい今尾さんならでは。実際に、未完成だった台場の石が築堤に転用されたほどでした。

東京湾の埋め立ては、江戸初期に東海道を整備したことに始まり、明治時代から大正時代にかけて拡張していきました。「これはあくまでも仮説ですが、埋め立てがますます進むと見込まれていたのではないでしょうか。高輪築堤はその先駆けとして建設されたとも考えられます」(今尾さん)

古地図で鉄道を読み解くと、定説とは異なる景色が見えてきます。

高輪築堤とは
延長約2.7km、幅17.5m(路盤幅6.4m)、高さ3.8m。のちの複線化(明治9年)を考慮して設計された。品川台場や神奈川台場の築造で実績がある土木請負人の平野弥十郎が工事を担当した。石垣に品川台場や高輪海岸の石を転用。海側は30度の傾斜で石を一段ずつ、陸側は垂直に近い角度で石を積み上げている。築堤の両側の地面に杭を多数打ち込み、地盤を固めている。明治32年(1899)に線路を3線に増やすため幅を21mに拡張。沿岸部の埋め立てにともない、大正3年(1914)頃に埋設された。

写真/杉﨑行恭 文/遠藤則男

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