今日、10月14日は鉄道の日。「サライ.jp」では鉄道の歴史を紐解くコラムの掲載をスタートします! 2022年に迎える鉄道開業150周年を記念して、小学館から鉄道地図の集大成『日本鉄道大地図館』を発売することが決定しました! 来年の発売まで、シリーズで「古地図で読み解く鉄道150年」を連載していきます。第1回目のテーマは「高輪築堤」です。

* * *

平成31年4月、日本に初めて鉄道が開業した際に使われた「高輪築堤」が、再開発が進む高輪ゲートウェイ駅周辺の工事現場から出土しました。この遺構により、鉄道は当初、海上に敷かれたことが改めて知られるようになりました。日本初の鉄道はなぜ海の上を走らなければならなかったのでしょうか。古地図を読み解くと、新政府が成立してまもない明治初期の諸事情がみえてきます。

良好な状態で「高輪築堤」が出土

高輪ゲートウェイ駅に近い出土現場で、高輪築堤の遺構(写真左)を指す地図研究家の今尾恵介さん
新橋駅〜品川駅間の4か所に架けられた橋梁のひとつ、第7橋梁の跡。橋台には西洋式の石積みが採用された
写真提供/JR東日本
築堤の海側には、干潟の地盤を固めるための杭(波除け杭)が数多く打ち込まれた

日本で初めて新橋駅〜横浜駅間に鉄道が通じたのは、明治5年(1872)のことです。新橋駅〜品川駅間の海上に造られた高輪築堤は、その後の沿岸部の埋め立てにともない大正時代に埋設されました。どのような状態で残っているかは長らく不明でしたが、驚くほど良好な状態で発見されました。

地図研究家で鉄道史にも詳しい今尾恵介さんは、「日本初の汽車が海上を走ったことは、鉄道の歴史に関心がある者にはよく知られた史実ですが、遺構が出てきたことで、興味がなかった人にまで関心が広がったようです」とみています。

明治の近代化を象徴するこの遺構を保存する声が高まるなか、令和3年(2021)8月、文化庁は異例の早さで国の史跡に指定することを決定。JR東日本と東京都港区が主催する見学会には申し込みが殺到し、世間の関心は高まっています。

日本初の鉄道計画は、明治2年(1869)の朝議に端を発します。東京と京都を結ぶ幹線鉄道と、そこから派生する支線を含む4路線の建設が決まりました。支線のひとつとして新橋駅~横浜(現・桜木町)駅間が翌年に着工。イギリス人技師エドモンド・モレルの指導のもと建設が進められ、明治5年9月に工事が終了しました。総延長29㎞のうち、新橋駅~品川駅間の大部分で海上に線路が敷かれたのです。


高輪築堤には、独特の構造物が設けられました。新橋駅から品川駅までの間に4か所の橋梁が架けられましたが、これは漁師が沖へ漁に出るための水路を確保するためでした。また、陸側から築堤に向かって通路が延びていました。明確な根拠はないものの、保線用の通路(仕切り堤)と考えられています。

出土した築堤の上には、線路の枕木を固定するために撒かれるバラスト(小石)も残る
築堤からは、鉄道開業時に使われたレールとレールを固定した枕木が出土した
港区立郷土歴史館の学芸員の説明に、今尾さんがメモをとりながら質問を繰り返す

汽車はなぜ海上を走ったのか

日本で最初の鉄道にもかかわらず、なぜ海上に線路が敷かれたのでしょうか。当時は鉄道の建設に反対する動きが少なくなかったようです。とりわけ高輪周辺には軍用地が多く、国防上の要衝だった高輪周辺の土地を兵部省(後の陸海軍)が引き渡さなかったことがその理由、といわれてきました。これが定説とされていますが、今尾さんはこの説に疑問を呈します。

「巨額な資金を要する鉄道の建設に軍部が反対したのは事実です。欧米列強の日本進出に脅威を感じた明治政府は、富国強兵を優先したからです。でも、それを理由に海上に築堤を設けたと考えるのは短絡的ではないでしょうか」。

高輪付近を南北に貫く国道15号は、かつての東海道と重なり、東側に海岸線が並行して延びていました。幕末にはすでに、街道沿いには立錐の余地もなく住居が立ち並んでいました。

「そこに鉄道を通すとなると、立ち退きなどで莫大な補償問題が発生します。しかも、まだ得体の知れない鉄道を建設することに、周辺の理解が得られたとは思えません」と今尾さんは続けます。

鉄道開業後に東京府が作成した東京市街の沽券(こけん)地図(明治6年)。高輪の海に線路が描かれている。沽券とは土地の売買に関する証文のこと。地図には売買価格も記されている
東京都公文書館蔵
沽券地図を拡大すると、東海道沿いに住宅が密集しているのがわかる。当時は、公益のためでも政府が強制的に土地を買い上げることはできず、鉄道用地を確保するのは容易ではなかった

早期開業を優先し海上への敷設を選択

高輪ゲートウェイ駅周辺の空撮。土がむき出しになった再開発エリアの西端(写真中央)に延びるのが高輪築堤の遺構 写真提供/吉永陽一

まだ誰も鉄道を見たことがない時代のことです。日本初の鉄道が通じた新橋駅~横浜駅間は、明治政府における鉄道推進派の大隈重信と伊藤博文が、鉄道がどのようなものなのかを世に広く知らしめるためにデモンストレーションとして建設が進められた、ともいわれています。その有用性を理解させるため、面倒な事態を避け、一刻も早い開業が優先されました。

今尾さんは「推進派は陸地に通すことにこだわらなかったのではないでしょうか。しかも高輪の海は遠浅ですから、築堤をつくることは技術的に難しくないと判断したはずです」と推測します。

嘉永6年(1853)、ペリー来航に備え、江戸を防衛する目的で品川台場が設けられました。建設にあたり、品川の八ツ山や御殿山を切り崩し、その土砂で海上が埋め立てられました。初代品川駅も埋め立て地の上に開業しました。

「遠浅の海に建設された高輪築堤にも、品川台場を築造した際の技術が応用されていると想像できます」。この見立ては地形図に詳しい今尾さんならでは。実際に、未完成だった台場の石が築堤に転用されたほどでした。

東京湾の埋め立ては、江戸初期に東海道を整備したことに始まり、明治時代から大正時代にかけて拡張していきました。「これはあくまでも仮説ですが、埋め立てがますます進むと見込まれていたのではないでしょうか。高輪築堤はその先駆けとして建設されたとも考えられます」(今尾さん)

古地図で鉄道を読み解くと、定説とは異なる景色が見えてきます。

高輪築堤とは
延長約2.7km、幅17.5m(路盤幅6.4m)、高さ3.8m。のちの複線化(明治9年)を考慮して設計された。品川台場や神奈川台場の築造で実績がある土木請負人の平野弥十郎が工事を担当した。石垣に品川台場や高輪海岸の石を転用。海側は30度の傾斜で石を一段ずつ、陸側は垂直に近い角度で石を積み上げている。築堤の両側の地面に杭を多数打ち込み、地盤を固めている。明治32年(1899)に線路を3線に増やすため幅を21mに拡張。沿岸部の埋め立てにともない、大正3年(1914)頃に埋設された。

写真/杉﨑行恭 文/遠藤則男

 


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