今回は、ニューヨークのジャズ・クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」について。モダン・ジャズ・ファンを自認する方ならその名は当然ご存じだと思います。本連載でもたびたび紹介していますが、当地で録音された『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』というアルバムも何枚もお聴きのことでしょう。ヴィレッジ・ヴァンガードは1934年に開業。現在も営業は続いており(コロナ禍以降は、ライヴ配信中)、名実ともに「ニューヨークでもっとも歴史あるジャズ・クラブ」として知られますが、もともとはジャズ・クラブではありませんでした。
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ヴィレッジ・ヴァンガードは、1934年2月26日にオープンしました。オーナーはマックス・ゴードン。1980年に書かれたゴードンの自伝(※)に記されたオープンのいきさつをみると、ジャズとは無縁の状況に驚きます。コピーライターの仕事をしていたゴードンは、女友達にたきつけられて、1932年に酒場「ヴィレッジ・フェア」をオープン。自伝には「店においてある新聞でも拡げながら、その日一日の出来事を友人と語らい、互いの意見を交換する。そんな憩いの場にしたかった。宵闇が迫る頃となれば(中略)常連の詩人が立ち上がり(中略)詩の一篇でも吟じてくれる。ビレッジ・フェアはそんな場所になるはずだった」とあります。幸い思惑どおりに、店には詩人や芸術家が集まって連日盛況となりましたが、禁酒法時代のニューヨークでは店の運営は難しく(酒類販売で検挙される)、短期間で閉店を余儀なくされました。しかし、手応えと顧客をつかんだゴードンは、友人の力を借りて手作りで新たにヴィレッジ・ヴァンガードをオープンさせ、その1年後の1935年2月22日にはキャバレー・ライセンスを取得できる設備(ゴードンによれば「二つの出入り口と二つの便所」)のある店舗に移転し、現在に至ります。
というわけで、オープン当初は詩の朗読や寸劇、コメディ、トークショー、歌といったプログラムが中心でした。そのステージからは、のちにアカデミー女優となるジュディ・ホリデイらが輩出されました。1940年代初頭にはレッドベリーやジョッシュ・ホワイトらのブルース・シンガーや、フォーク・シンガーのリチャード・ダイアー=ベネットが出演し大反響だったとあります。それに続いて出演したのが、スタンダップ・コメディアンのアーウィン・コーリーや、ボードビリアン時代のパール・ベイリーということなので、当時「ビバップ」で盛り上がっていたであろうジャズ・クラブとは一線を画した立ち位置だったことがわかります。
このようにヴィレッジ・ヴァンガードは、少なくともオープンから10年ほどはジャズとはほぼ無縁だったわけですが、ではジャズを始めたのはどういうきっかけだったのかというと……。50年代の半ばには完全な「ジャズ・クラブ」になっていることは事実ですが、自伝には明確には記されていません。まあ、ソニー・ロリンズ、マイルス・デイヴィス、チャールズ・ミンガス、ローランド・カーク、セロニアス・モンクらとのエピソードや、「考えてみれば、チック・コリア、ハービー・ハンコック、チック・コリアのように、のちに大成するジャズ・ミュージシャンの卵を、私はたくさん見つけていたのだ。」という述懐を読めば、ゴードンの「ヴァンガード=先駆者」の姿勢が彼らを惹きつけたということが想像できます。また、たとえば同時代のジャズのインディー・レーベルのオーナーたちのように、「絶対ジャズ」という思いでのスタートではなかったというのも、むしろプラスになった部分があるのではないでしょうか。
マックス・ゴードンは、1989年に86歳で亡くなりました。その後は妻のロレイン・ゴードンが運営を引き継ぎましたが、ロレインは2018年に95歳で亡くなりました。
※参考文献:Max Gordon『Live At The Village Vanguard』(Da Capo Press)。文中の引用は日本語版『Live At The Village Vanguard(ジャズの巨人とともに……ビレッジ・バンガード)』中江雅彦訳(スイングジャーナル社)より。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。