文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「街々のよそおいが如何に華美になろうとも、戦争と云う悪鬼によって無理無体に打ち毀(こわ)された現実に、伝統の美はない」
--野田宇太郎

野田宇太郎は明治42年(1909)福岡県の生まれ。父の清太郎は農業の傍ら料亭をも経営していた。「宇太郎」の名は、清太郎が尊崇する郷里出身の政治家・野田卯太郎が命名したという。

野田宇太郎は早くから詩作に取り組み、生涯、詩人の魂を持ち続けていた。一方で、文芸雑誌編集者としても優れた仕事を重ねた。下村湖人の傑作『次郎物語』を世に出し、商業雑誌で最初に三島由紀夫の作品(『エスガイの狩』)を掲載。時勢の流れの中で忘れられかけていた蒲原有明や幸田露伴の仕事に光を当て直したのも、野田宇太郎だった。

そして、なんといっても、「文学散歩」という新機軸を確立したことが、この人の最大の功績だろう。敗戦後ほどない昭和25年(1950)12月、「冢中枯骨(ちょうちゅうここつ)を拾う代りに、冢中宝玉を求むる気持」で近代文学と作家の足跡を実地に踏査しはじめたたのである。

掲出のことばのように、復興のきざしの影に戦争の傷跡を感じながら、野田はまずは森鴎外や夏目漱石にゆかりの地を歩いていく。

「私は数々の思い出を抱いて崖の上の観潮楼あとに立った。根津、谷中の町々が谷間のように見える崖上である。その谷間の向うに、上野谷中の墓地がある」

「家の裏手には焼けて新築した昔の郁文館中学が、塀一重で、昔のままに続いている。(略)私はこの界隈が焼けた翌日にもそこを通ったことがあった。そしてこの『猫』の家が、庭の樹立(こだち)で根津の方から来る火勢をせきとめて、ほとんど奇蹟的に焼け残ったのを知っている」

着古した破れ外套のポケットに、一冊の地図と小さな手帳、一本の鉛筆をしのばせて始められたこの散策は、いつしかカメラという相棒も加えながら、死の2か月前まで、34年間もつづく野田のライフワークとなった。歩いた距離は延べ10数万キロ。その探訪の記録は、のちに『野田宇太郎文学散歩』全24巻25冊にまとめられている。

私は以前、福岡県小郡市の市立図書館内に設けられた野田宇太郎文学資料館を訪れたことがある。そこには生前の野田が大切にしていた一着の羽織が残されていた。黒無地。紐の薄茶は丁字染めか。地味ではあるが何か気品のようなものが漂っていた。それもそのはず。聞けば、これは、野田が文豪・幸田露伴の形見として譲り受けたものという。

ものごとに行き詰まりを感じたとき、これを着ると先達の励ましのことばを聞くようで元気になる。生前の野田はそんなふうに語っていたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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