文/濱田浩一郎

竹中半兵衛は合戦の時に牛に乗っていた?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」において羽柴秀吉に仕えた竹中半兵衛重治を演じるのは、俳優の菅田将暉さんです。秀吉の軍師と言われる半兵衛の生涯や言行には謎が多く、様々な伝説に彩られています。幕末の館林藩士・岡谷繁実が約15年もの歳月をかけて完成させた人物列伝『名将言行録』もまた半兵衛に関する「伝説」を載せる1つの書物と言えるでしょう。
それによると、半兵衛の容貌は「婦人」(女性)のようだったとあります。合戦に際しても半兵衛には「猛威」(激しい勢い)というものはなく、大人しい馬に乗り「虎御前」という刀を差し「静まり返て」いたとのこと。
また同書は、半兵衛は軍陣にて常に牛に乗っていたとの興味深い逸話を載せています。しかし同書はその逸話に対する人々の反応も載せていて、それは「いくら半兵衛といっても常に牛に乗る理由はない。1、2度ばかり牛に乗ったのが常に乗ったかのように話が広がったのであろう」というものでした。
同書には半兵衛は「斬首捕虜の功」(つまり合戦での武功)はなかったが、秀吉を助けて軍務に参画したとあります。「敵を制すること神の如し」「秀吉の腹心」との表現もなされています。秀吉は半兵衛を信頼し、事あるごとに半兵衛に意見を聞いたとされます。よって半兵衛も意気に感じ秀吉に献策したのでした。秀吉が多くの軍功を立て、織田信長の股肱となったのは半兵衛が支えたお陰とまで同書は記しています。
竹中半兵衛の死と複数の墓について
さて同書には半兵衛の死にまつわる逸話も掲載されています。天正7年(1579)、秀吉は播磨国の三木城(城主は別所長治)の攻略を目指していましたが、半兵衛も秀吉の側にありました。しかし半兵衛は体調不良となり、三木の陣を離れます。京都に上り、治療するためです。が、半兵衛の病は既に重く、回復の見込みはないことを知ります。普通ならば絶望し、京都に留まるのかもしれませんが、半兵衛は違いました。ならば「軍中にてこそ死なめ」と軍陣でその生涯を終えることを決断するのです。半兵衛は播磨に下り、その年の6月に病没しました。
これと同じような話は『豊鑑』にも記されています。『豊鑑』というのは半兵衛の嫡子・竹中重門が著した秀吉の伝記です。同書によると、秀吉は半兵衛のことを何事においても頼みにしていたとあります。しかしその「頼もしき人」である半兵衛は病になってしまいます。三木の陣中においては名医もなく、半兵衛は都に上ります。治療の甲斐もあったのでしょう。同書には半兵衛の病は「さわやぐ」とあります。体調は少しではありますが、回復したのです。半兵衛は「播磨にて死なむことこそ軍場に命を落すに同じかるべし」(播磨で死ぬことは戦場で命を落とすことと同じ)との思いに至り、未だ病みながらも、秀吉がいる播磨に下るのでした。そして6月に亡くなったと『豊鑑』にはあります。
同書によると、秀吉は半兵衛の死を限りなく悲しんだといいます。「劉禅、孔明を失ひしに異ならず」との表現もなされています。劉禅というのは中国三国時代の蜀漢の第2代皇帝(初代皇帝はその父・劉備玄徳)。孔明というのは劉備・劉禅父子に仕えた「名軍師」として有名な諸葛孔明のことです。つまり、秀吉が半兵衛を失くしたのは、劉禅が孔明を失ったに等しいというのです。
半兵衛は惜しまれつつその生涯を閉じたのですが、半兵衛の墓はどこにあるのかというと、半兵衛が亡くなった兵庫県三木市平井にあります。墓石には「竹中半兵衛重治墓」と刻まれているのですが、実は半兵衛の墓は、三木市にもう1つあります。もう1つの半兵衛の墓は三木市志染町の栄運寺の裏山にあるのです。墓石の裏側には「天正七年六月十三日」と半兵衛が亡くなった年月日が刻まれています。
そして半兵衛の故郷・美濃国(岐阜県)の禅幢寺(竹中氏の菩提寺。垂井市に所在)にも半兵衛の墓があるのです。半兵衛の嫡子・重門が父の菩提を弔うため墓を移築したのです。半兵衛の命日などには半兵衛を偲ぶ法要が行われており、半兵衛は今に至るまでも多くの人に慕われているのでした。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











