
2011年3月11日に発生した東日本大震災から14年目を迎えた。この未曾有の災害がもたらした、悲しみや苦しみ、心の傷は今も癒えることはない。
康太さん(64歳)も「当時、東北支社に勤務しており、東日本大震災に遭いました。あの経験で、僕の生き方の根幹のようなものが変わった」という。康太さんは60歳で定年退職してから、小学生や親世代に向け防災意識を高めるボランティア活動を手伝っている。
東日本大震災に被災した瞬間
東日本大震災は2011年3月11日14時46分に発生。康太さんは東京に本社がある不動産関連会社の東北支社で働いていた。当時は50歳で部長職。妻子を東京に残して、単身赴任していたという。
「息子も成人し、大学生になっているから手はかからない。カミさんも仕事しており、“亭主元気で留守がいい”状態でした。とはいえ、カミさんはよく仙台に来てドライブや登山をしたりして、第二の新婚時代を楽しんでいたんです。仕事も役員は見えていませんでしたが、会社でも順調に出世し、満たされていた。あの日は金曜日で、午前中に東京本社で会議があった。そのまま東京の家に帰ろうかと思ったんですけれど、夜に仙台の取引先と重要な会食があり、仙台に戻ったんです」
昼食を食べていなかったので、駅から近いビルの地下にある居酒屋に入った。ここは通し営業をしており、何度も行ったことがあった。生姜焼き定食を食べていると、揺れが来た。
「ドカンと衝撃が来て、壁に飾ってあった絵が下に落ちた。あまりにも激しい揺れで立ち上がれない。地下だったから地上ほど揺れていないはずなのにね。剥がれた壁がパラパラと落ち、ビルごと崩れそうな感覚もある。店はビルの奥まった場所にあり“このまま死ぬんだ”と思いました。でもそういうときは意外と冷静で、“生命保険も入っているから息子は大学を卒業できるし、東京のマンションのローンも団信(団体信用生命保険)があるから大丈夫だ”と思ったのです」
そう思ったのは、たった5秒くらいの間だったという。そしてすぐに停電で真っ暗に。
「停電は3秒程度で非常用電源が通電したのか、照明が点灯しました。しかし、3秒間の暗闇の恐怖は恐ろしかった。僕は当時、“仕事も家族も恵まれて、いつ死んでもいい”とどこかで思っているところがありました。しかし、眼前に死が迫ると、人は死にたくないと強烈に思うものなんです。あれは今思い出しても鳥肌が立つ。真っ暗な中、揺れを感じる恐怖は恐ろしいものがある」
東日本大震災は、揺れている時間が長く、余震が続いたことが大きな特徴だった。
「人間って不思議なもので、明るくなると正気に戻る。店には僕と2組くらいの客がいて、金を払ってから店を出ようとしたら店主のオヤジが“いいから、早く避難して”と言う。あの姿は立派だった。一国一城の主として落ち着いていた。あのとき、財布の中にある有り金を全て置いてこなかったことは、今でも後悔しています」
地上に出ると、真っ白な顔をした人々が、駅から吐き出されてきていた。災害があったことはわかるけれど、情報はない。タクシー乗り場とバス乗り場に人だかりができていた。
「とりあえず、会社に戻ったら、書類はめちゃくちゃ。電話は繋がらないけれど、ネットは繋がった。あれは3時半くらいだったかな。若手社員がスマホを見て叫び声を上げた。彼は仙台空港が海に沈んでいると泣いている。津波の被害でした」
【東京に帰るという選択肢はない……次のページに続きます】
