文・絵/牧野良幸
今年の夏も猛暑だった。日本の夏は明らかに昔と違う季節になってしまったようだ。この先が思いやられる。
その一方で昔と変わらない日本の夏もあった。高校野球もそうだが、広島と長崎の原爆死没者の追悼、終戦記念日、どんなに猛暑でも8月になれば自然と過去に思いは向かう。
ということで今回は太平洋戦争を題材にした映画を取り上げてみたい。
『野火』である。原作は大岡昇平の有名な小説。和田夏十が脚本を書き、市川崑監督がメガホンをとった。1959年(昭和34年)公開の映画だ。
バシッ。
「馬鹿野郎、帰ってくるやつがあるか!」
いきなりピンタをくらうのは田村一等兵(船越英二)。
田村は肺病で戦力外となり野戦病院に送られた。しかしたった3日で戻って来た。分隊が持たせた5日分の食料もない。
ここはフィリピンのレイテ島である。日本軍は米軍の攻撃に苦戦している。生き残った日本兵が戦っているのは、もはや米軍ではなく「飢え」であった。兵士の仕事は現地の畑から食料を調達すること。働けない田村は部隊のお荷物でしかない。
「お前のためを思って言っているんだ。もう一度病院に行け。入れてくれなかったら死ぬんだ。手りゅう弾を無駄に与えたわけじゃないぞ!」
ぼんやりと分隊長の話を聞いていた田村は言う。
「田村一等兵、これより病院におもむき、入院が許可されない場合は自決します」
「よし、元気で行け」
「はい」
いきなり救いのない場面から始まる。しかしこの場面などまだいい方だ。この映画には勇ましい戦闘シーンも戦友同士の友情もない。極限状態に置かれた人間が生き延びるために何をするか、それを描いた映画だ。
田村は病院(と言っても小屋だが)に戻ったが、また入院を断られる。田村のように見捨てられた負傷兵は他にもいて、彼らは病院前の林で寝そべっていた、田村も彼らに加わる。
「また帰って来たのか」
田村に声をかけたのは足を負傷している安田(滝沢修)だった。ここにいる者は病院に恨みがある点では共通しているものの、お互いを信用していない。彼らが求めているのは友情ではなく食料なのだ。
昔の戦争映画を見ていると、戦闘シーンよりも軍隊生活の方がリアルに迫ってくるのは僕だけだろうか。エアコンの効いた部屋にいることも忘れて、自分が田村になったような気がしてくる。
兵隊の世界で生きていくなら「マウント」をとって優位に立つか、最初から頭をたれるか、であろう。たばこを売って商売をしている安田は前者だし、安田を“おっさん”と呼んで世話をする永松(ミッキー・カーチス)は後者だ。
田村はどうだろう。田村は一匹狼のようである。飢えている者には、なけなしの食料を分けてやる気前の良さを見せた一方、「俺にも」と寄ってきた永松は拒絶した。
田村を演じる船越英二は、イイ男だけれども気が弱い、そんな役柄が多い印象だったので、田村は優柔不断な男かなと心配したが、どうやら腰は座っているらしい。ひと安心した。
映画を続けよう。その後、米軍の砲撃はこの一帯にもおよび、みんなは散りぢりに逃げ出す。田村は一人で何日も山や丘陵、ジャングルをさまよう。
田村が進む先々で見るのが野火だった。現地の農民が草やとうもろこしの殻を焼いているのだろうか。米軍やゲリラへの合図かもしれない。野火を見るたびに田村は警戒する。そして自問する。
「喀血して命は長くないのに、手りゅう弾で自決しないのはなぜだ?」
小川があれば水を飲み、米軍の飛行機の音がすればジャングルに逃げ込む田村。村を発見すれば危険なのに行ってみる田村。その村でフィリピン人の娘に騒がれると、思わず撃ち殺してしまう田村。貴重な塩を見つけると持てるだけ持っていく田村。
結局、なぜ生きようとするのか田村にも分からない。死なないから生きているというべきか。
そんな田村にも生への希望が生まれる。長く孤独な迷走のあと、別の隊の兵士3人と出会った時だ。久しぶりに同胞に会って喜ぶ田村。
「田村一等兵であります」
「退却する兵はパロンポンに向かうことになっている、ついてくるか」と班長。
「よろしくお願いします」
大切な塩はみんなに分配した。塩で友情を得られるならそれもいい。
だがバランポンへの道では友情はおろか人間関係すら消滅する。雨期で降りそそぐ雨のなか、負傷兵、病兵、飢えた兵士はめいめいに歩くだけ。他の兵士に興味を持つとすれば、行き倒れた者の軍靴が自分のよりましな時だ。その時は履き替える。
道端で横たわり手を組んでいる兵隊もいる。死ぬのを待っているのだ。
「見たくない、俺は絶対見ない!」
と田村。もし映画が臭いを出せたなら臭気が押し寄せることだろう。
結局、敗走を試みる日本兵は米軍の攻撃でほとんどが死ぬ。生き残った田村にも飢えが襲いかかる。その田村を救ったのが、病院で出会った永松だった。安田もいた。
もう食料はない。永松は“猿”を撃ち殺して、その肉を食べているという。しかし田村は“猿”が何を意味するのか気づく。田村は確信を持って永松にきく。
「おまえ、俺を“猿”と勘違いしなかったか?」
「まさか」
とうそぶく永松。しかし永松が食料にするために同胞を狙っていたことは、安田が“猿”になることではっきりする。映画の中でもっともショッキングなシーンである。目をそむけたくなるシーンだ。
映画の最初でビンタを受けるところから田村をずっと追ってきた。最初は自分が田村と同じような境遇に置かれたらどうするだろうと思いながら見ていたが、話が進むに連れて、田村のような経験はしたくないという思いが強くなった。
それは田村も同じだったのだろう。田村はあれだけ警戒していた野火に向かって歩く。たとえ農民が敵であっても、普通の暮らしをしている人間に会いたいと思いながら。
【今日の面白すぎる日本映画】
『野火』
1959年
上映時間:104分
監督:市川崑
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス、佐野浅夫、中條静夫、浜村純、ほか
音楽:芥川也寸志
文・絵/牧野良幸
1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。著書に『僕の音盤青春記』 『少年マッキー 僕の昭和少年記 1958-1970』、『オーディオ小僧のアナログ放浪記』などがある。
ホームページ https://mackie.jp/