「ロック少年が選んだのは雅楽の道だった」
幼少の頃から西洋音楽に親しんできた少年は、高校卒業後に雅楽の道を選ぶ。それは千年以上も続く楽家、東儀家が伝える日本の音楽であった。
とうぎ・ひでき 昭和34年、東京都生まれ。父の仕事の関係で幼少期を海外で過ごす。高校卒業後、修業期間を経て宮内庁の楽師として活躍し、独立。古典を継承しつつ、国内外で幅広く活動。9月10日にCD『ヒチリキ・ロマンス』を発売。現在、『全国ツアー2014』を開催中。
「音楽家になりたいのなら、東儀家が伝える音楽である雅楽に目を向けたらどうか」
親のこの言葉が決め手だった。ロックに夢中になっていた少年は、将来はロックギタリストになるものと思っていた。が、逡巡もある。
「音楽的素養には自信がある。が、本当にプロになれるだろうかと、高校卒業を控えて気持ちが定まらない時の、母のひと言でした」
東儀家は母方の実家で、1300年続く雅楽の家である。が、現在は世襲ではない。父は商社マンで、少年期をタイやメキシコで過ごした帰国子女。この海外に住んでいた経験が、日本の文化に目を向けさせるきっかけにもなった。
未知の音楽である雅楽を選んだが、気負いはない。ロックやジャズに加えて、またひとつ音楽の世界が広がったというほどの気持ち。楽しそうだと思えば、軽やかに身を投じるのが東儀秀樹流である。
東儀家が伝える雅楽の道に進むとは、宮内庁に入るということだ。普通なら中学を卒業して受験するのを、幸運にも欠員があったからと高校卒業後の18歳で試験を受けて合格。宮内庁式部職楽部楽生科に通う毎日が始まった。
「先輩たちより年上だし、生意気な言動で『もう来なくていい』と叱られたこともあります(笑)」
紆余曲折あったものの、成績はいつもトップ。楽生科を終え、楽師として本格的な活動が始まった。それらは美しく荘厳な雰囲気で、充実感もあった。
一方、宮内庁の楽師という国家公務員でありながら、担当楽器である篳篥(ひちりき)のオリジナル曲を作るようになる。サロンコンサートなどでその演奏が評価されるが、組織は自由な活動を許さない。楽生として7年、楽師として10年の公務員生活に終止符を打つ。安定より芸術家としての道を選んだのだ。
独立後の活躍は周知の通り。雅楽伝道師として、国内外に広く雅楽を知らしめた功績は大きい。
多趣味で、バイクもそのひとつ。宮内庁在職時代もバイクで皇居に通っていた。
コンサートで雅楽器、篳篥を演奏する。プロフィールの写真で手にしているのは笙(しょう)。
幼稚園児でビートルズに憧れ、成蹊高校時代はロック少年だった。写真はロックギタリストを志していた高校2年の頃。
独立後の幅広い活躍や3度も死の淵を彷徨った事故や病気など、ここでは書ききれない興味深い話は「ワタシの、センタク。」のウェブサイトで公開中です。
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