文/池上信次

「歌ってみた」は、いまや自撮り動画の行為/いちジャンル名として認識されていますが、この言葉を聞いたとき、最初に連想したのはチェット・ベイカー(1929〜88年)のことでした。トランペッターのベイカーは「余技」のヴォーカルが大人気となって、いつしかそれがもうひとつの「楽器」となったことはよく知られています。なぜベイカーは「歌ってみた」のでしょうか。「歌ってみたい」というのはなにか人間の根源的な欲求なのでしょうか? なんて、ここではそんな大きなことを考えるつもりはありません。ただ、チェットの「歌ってみた」という(おそらく気楽な)最初の一歩がなければ、その才能は見出されず、新しい音楽も生まれなかったとすれば、これはとても重要な行為なのだと思います。


『チェット・ベイカー・シングス(ステレオ・ヴァージョン)』(ワールドパシフィック)
演奏:チェット・ベイカー(ヴォーカル、トランペット)、ラス・フリーマン(ピアノ)、カーソン・スミス(ベース)、ボブ・ニール(ドラムス)ほか
録音:1954〜56年、62年
これに今邦題を付けるなら『チェット・ベイカー「歌ってみた」』ですよね。このジャケットは同名アルバムの3ヴァージョン目になる「ステレオ版」。最初は10インチLPで、2回目は新規録音曲を追加収録した12インチLPでリリースされ、3回目のこれはベイカーの声にエコーを付加し、さらにジョー・パスのギターをオーヴァーダビングしてステレオ加工したもの。新しいメディアが出現すると、すぐさまそれに対応したアップデート版をつくっていたわけですから、とても人気があったということでしょう。同じタイトルでもモノラルとステレオは雰囲気がかなり異なるのでご注意を。どちらも面白いですよ。

ベイカーは「歌ってみた」あとも、ずっとトランペットとヴォーカルの両方を同等に演奏していましたので、まだそのストーリーが知られていますが、「余技」のほうが有名になって完全に主客転倒どころか、まるで「転向」状態に見えてしまった例もあります。

その代表はナット・キング・コール(1919〜65年)。1930年代末からはピアノ、ギター、ベースの編成による「ナット・キング・コール・トリオ」で活動し、ピアニストとしてその革新的なスタイルが大きく注目されましたが、40年代半ばからはヴォーカルでもヒットを放ち、50年代になるとポップスの世界で大スターとなりました。ナット・キング・コールはジャズ・ファンからすればどの時期も「超一流ピアニスト&ジャズ・ヴォーカリスト」ですが、50年代のレコードはほとんどがオーケストラをバックにしたヴォーカルがメインですので、世間一般の認識は「歌手」だったと思われます。

もっとあとの時代にはジョージ・ベンソン(1943年〜)がいます。60年代末にはウェス・モンゴメリーの後継者ともいわれるほどのバリバリのジャズ・ギタリストのベンソンですが、70年代半ばに少し「歌ってみた」あと、1976年の『ブリージン』に収録した、自身のヴォーカルをフィーチャーした「マスカレード」が大ヒットし、ポピュラー・ヴォーカリストの仲間入りを果たしました(グラミー賞のポップ・ヴォーカル・パフォーマンスにノミネートされるほど「ポップ」な位置にいました)。その後しばらくは、時代の流れもあったのでしょう、アルバムはヴォーカル曲がメインになり、「ギターも弾けるヴォーカリスト」と一般には認識され、同じ言葉でジャズ・ファンからは揶揄されるという状況になりました(ベンソンの歌については、回をあらためて紹介する予定です)。

この3人は「歌ってみた」の大成功例であって、その陰には「歌ってみた」けれど……、という例ももちろんあります。前置きが長くなりましたが、今回は(結果的に人知れず)「歌ってみた」ジャズマンのアルバムを紹介します。

まず、トランペッターのケニー・ドーハム(1924〜72年)。ザ・ジャズ・メッセンジャーズへの参加や、自作曲「アフロディジア」を収録した『アフロ・キューバン』(1955年録音)で知られます。そこから熱いトランペットのイメージがありますが、じつは密かに?「歌ってみた」のです。


『ディス・イズ・ザ・モーメント! ケニー・ドーハム・シングス・アンド・プレイズ』(リヴァーサイド)
演奏:ケニー・ドーハム(ヴォーカル、トランペット)、カーティス・フラー(トロンボーン)、シダー・ウォルトン(ピアノ)、サム・ジョーンズ(ベース)、G・T・ホーガン(ドラムス)、チャーリー・パーシップ(ドラムス)
録音:1958年7月7日、8月15日
夜、トランペットを持って女性と戯れるジャケットといえば、あの人のアレもそうだな? と思った人は鋭い。この先の本文をお読みになって驚いてください。

『ディス・イズ・ザ・モーメント! ケニー・ドーハム・シングス・アンド・プレイズ』がそのタイトル。「枯葉」に始まり、「アイ・リメンバー・クリフォード」「エンジェル・アイズ」「ゴールデン・イヤリングス」などスタンダードがずらり。収録全10曲、全部歌っています。このドーハムの歌を初めて聴いたときの感想は、「ああ、チェット・ベイカーってうまいんだ」。ベイカーのヴォーカルはけっこう危ういところがあって(まあそれが味になっているのですが)けっして「うまい」わけではないと思うのですが、ここで逆にチェットの「うまさ」がわかったという、なんともドーハムには失礼なんですけど、お察しください。逆にトランペットの演奏は素晴らしく、その落差がヴォーカルをより強く印象づけてしまうという皮肉な結果を招いてしまっています。

ベイカーと比較してしまったのは、当然ながら『シングス』があったからですが、『ディス・イズ・ザ・モーメント〜』が録音された1958年のチェットといえば……、なんとドーハムと同じ8月に、同じリヴァーサイドで『イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー チェット・ベイカー・シングス』を録音しているではありませんか! 調べてみると発売も同じ同年の11月。しかもそのジャケットは女性モデルとのツーショットという、まるでドーハムと比べてくれと言わんばかりの「双子アルバム」だったのです。


『イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー チェット・ベイカー・シングス』(リヴァーサイド)
演奏:チェット・ベイカー(ヴォーカル、トランペット)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、ジョージ・モロー(ベース)、サム・ジョーンズ(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)、ダニー・リッチモンド(ドラムス)
録音:1958年8月
ドーハムのアルバムと録音スタジオも同じです。両方の録音に参加したサム・ジョーンズはどう思っていたのかな? そもそもベイカーとドーハムは互いの企画を知っていたのか?

しかし、なにも同じレーベルで同じ企画のアルバムを同時に作らなくても、と思いますが、ひとつ違いがありました。ドーハムのプロデューサーはオーリン・キープニューズで、ベイカーはビル・グラウアー。キープニューズとグラウアーはリヴァーサイドの共同経営者です。ふたりは何を考えていたのでしょうか。協力してドーハムを第二のベイカーにしようとしていたのか? それとも喧嘩でもしていたのか? どちらにしても勝負は明らか。ベイカーのほうは名盤となり、ドーハムのほうは「幻盤」となりました。ベイカーはそのあとも歌い続けていますが、ドーハムのヴォーカル・アルバムはこれが最初で最後。おそらくこれはドーハムの「黒歴史」となってしまったんでしょうが、このアルバムの後にドーハムは、『クワイエット・ケニー』(ニュージャズ)や『ウナ・マス』(ブルーノート)などたくさんの傑作をリリースしていることを付け加えておきます。「歌ってみた」ことは素晴らしいチャレンジでしたが、向き不向きは誰にでもあるもの、なのです。(次回に続く)

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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