『すきやばし次郎 百歳「鮨がたり」』担当編集者が感銘を受けた“百歳の鮨職人の仕事術”【1】

史上最高齢のミシュラン三つ星レストランの料理長としてギネスブックに認定された鮨職人「すきやばし次郎」の前店主・小野二郎さんは、現在百歳。現代の私たちが常識と思っている江戸前鮨のスタイルを新たに生み出した、いわば「鮨の神様」と呼ばれる存在です。ジョエル・ロブションをはじめとした世界の食のプロたちが「すきやばし次郎」の鮨に感動したことから、ミシュラン三つ星を獲得し、世界中に日本の鮨が知られるようになった経緯があります。

すきやばし次郎のつけ台に立つ小野二郎さん。(2018年撮影)

では、小野二郎さんはいかにして新しい鮨を生み出してきたのか、どんな人生を歩んできたのか……その一部始終と、日々の研鑽で培われた職人哲学、そして次世代の職人へのメッセージまで語り尽くした至高の一代記が、この度一冊の単行本になりました。

『すきやばし次郎 百歳 「鮨がたり」』
(小学館 2,750円税込)
表紙写真/立木義浩

本書の編集を担当した私が小野二郎さんの取材を通して、感銘を受けた「生き抜くための仕事術」をご紹介します。

小野二郎さんとの出会い

そもそも本書の企画の発端は、2011年ごろ、当時年に3回発行していたサライの増刊『美味サライ』を担当していた頃、小野二郎さんの長男の禎一さんが、私を「新蕎麦を食べる会」に招いてくださった時に遡ります。蕎麦の名店「竹やぶ」に早めに到着した時に、たまたまベンチの隣に座っていらしたのが、世界一の鮨店「すきやばし次郎」の小野二郎さんでした。

私は高名な鮨のマイスターの隣で緊張して座りながら、黙っているのも不自然と思い、思い切ってお声がけして、自己紹介をしました。にこやかに答えてくださった二郎さんに、ふと聞いてみました。

「何歳から食の世界で働いていらっしゃるんですか?」

返ってきたのは、予想外の答えでした。

「数えで九つ、今でいえば七歳からずっと働いてます」

そして、7歳の時に料理旅館に奉公に出てから、手押しポンプで1日2時間水汲みをしたり、夜中まで働いていた日々のことを話してくださいました。二郎さんの記憶は、まるで映画を見ているように鮮明でしたが、話に聞き入っていると次第に人数が揃ってきたので、

「すごいお話ですね。また、お聞かせいただけますか?」という言葉がつい口をついていました。

それから、月に1度、「すきばやし次郎」にお伺いして二郎さんと息子の禎一さんからお話を伺うようになりました。

「すきやばし次郎」の鮨と仕事を紹介したハンドブック。英訳も掲載されていて海外の方の人気が高い。

そんなきっかけで始まったインタビューは、『鮨 すきやばし次郎』と続編の『匠すきやばし次郎』として日英バイリンガルの単行本として発売され、国内ばかりか海外の方にも好評をいただきました。しかし、小野二郎さんの哲学や信念がどのように培われてきたかの来し方については、あまり盛り込むことができませんでした。それで、2冊の刊行後、さらにインタビューを重ね、今回、改めて単行本化することになりました。

小野二郎さんの話は多岐にわたりました。

ある時は、今までになかったにぎり鮨を生み出した時の話。

ある時は、奉公に出た料理旅館での仕事の話。

そしてある時は、戦争中でも料理を作って皆に喜ばれた話。

さらに、世界一に上り詰めるまでのストーリー。

そして、これからの職人に伝えたいこと。

二郎さんの語り口はとてもユーモアがあって、話すときには笑顔がたえません。「つけ台を離れると笑うんですね?」と聞くと「マウンドの上で打者に向き合う投手が笑いながら投げないですよね?」と、厳しい職人というより人生の達人のように答えてくれたのでした。すべての話に通底しているのは、本来の日本人の魂がそのまま残っているような、大らかさと素直さ、そして創造性でした。

世界中でグローバル化が進み、タイパ・コスパが重視され、生成AIがどんな質問に答えてくれる現代でも、小野二郎さんという職人の輝きは失せません。

これまでお話を伺ってきた中から、自分軸をしっかり持って、最先端で生き抜いてきた二郎さんだからこその「生き抜くための仕事術」をご紹介します。

「いいものを作っていれば、まちがいない」

小野二郎さんが生まれたのは1925(大正14)年。世界的な大恐慌で日本中が最も貧しかった頃、満七歳の時に現在の浜松市二俣の料理旅館「福田屋」に奉公に入ります。当時は路上に浮浪者があふれ、子どもの面倒を見てくれる人もいない時代でした。

「奉公に行けば屋根の下で眠れて飯が食える。ダメなら乞食になるか死ぬしかない」と覚悟を決めて入った奉公先で、福田屋の親方から言われた言葉が「いいものを作っていればまちがいない」という一言でした。

7歳で奉公に入った二俣の料理旅館「福田屋」の親方を囲んで。後列左から3人目が小野二郎さん。

「福田屋」は、大恐慌の時代でも賑わっていた遠州地方(静岡県東部)を代表する大きな料理旅館で、親方はことあるごとに「人は3食必ず食べるから、みんなが欲しがる味のいいものを作れば必ず人が来る」と、二郎さんに話していたそうです。

「それが私が一番最初に教わったことで、ずっと守ってきたことです。今でも、それは間違っていなかったと思うんです」

と、二郎さんは昔を思い出しながら話します。90数年前の親方の言葉を支えに仕事を続け、後々ミシュランで三つ星を獲得するまで、親方の一言を信じ続けた生来の素直さと真面目さは、「日本の職人」の本質のように感じられます。

「仕事は覚えるんじゃなく、盗む」

二郎さんの奉公生活は7歳から16歳まで。水汲み、出前下げ、厨房の掃除と朝から夜中まで働いても、料理は一切教えてもらえない日々。その頃の職人は、自分の技は生きていく上での財産で、決して誰にも教えませんでした。

「店に置いてもらうには仕事を覚えるしかない」−−二郎さんの負けず嫌いが本領を発揮します。尊敬する職人の仕事を観察し、仕事の合間に試行錯誤を重ね、13歳の時には結婚式の披露宴の料理を任されるようになっていました。

小野二郎さんは、「福田屋」で7歳から16歳まで働き、料理の基礎を盗んで覚えた。

二郎さんの言う「一人前の職人」とは、教えられたことを完璧にこなすだけでなく、「もっと美味しくできないか」と常に思考して、実験を重ねながら自分だけの味を目指すアーティストをイメージさせます。それはAIの時代でも価値が失われない仕事術と言えるかもしれません。

「人に教えてもらったことってのは、すぐに忘れるんですよ。自分が盗んだものは忘れない。自分が苦労して苦労して、なんとか自分のものにしようと思って盗んだものは忘れません」

「教わってある程度まできたら、今度は、自分が考えて今まで教わったことに工夫を加えて、自分なりにやって行かなかったら何にも進歩ってのはないんです。もう一度スタートなんです。それがないとダメなんですね。それがあるから進歩があるんです」

(ともに『すきやばし次郎 百歳 「鮨がたり」』より)

「仕事が自分に合わないんじゃない、自分を仕事に合わせる」

二郎さんの少年期から青年期は、現代のように職業を自由に選ぶことができない時代でした。奉公先の「福田屋」では、先輩の職人から菜箸(さいばし)で叩かれたり、水をかけられたりしながら修業していた時期があるそうです。与志乃でも、誰も仕事を教えてくれませんでした。「しかし」と二郎さんは言います。

『「俺にはこれは合わない」とか「こんな仕事、俺は覚えたくない」とか、そんなことばっかり言っていたら、一人前になれるわけがないんです』

『仕事ってのは、自分の方が合わせるんです。だから、鮨屋だったら鮨屋に自分を合わせて一生懸命やればいい。「ああ、これは俺に合わない」「これも合わない」と言っていたら、合う仕事なんてありませんよ。自分の仕事というのは、与えられたらそれを天職だと思って、一生懸命修業すればいいと思いますけどね』

(ともに『すきやばし次郎 百歳 「鮨がたり」』より)
鮨の仕事は仕込みが9割。「すきやばし次郎」から独立できるまでに10年。

握りの形は半年で覚えても、旬の短い魚の仕込みは10年やっても10回だけ。一生の仕事を芯から覚えるには、10年間の下積みの我慢は当然とも言えます。

一人前になるための苦労や理不尽から逃げずに、知恵と度胸で乗り越えてきた二郎さんの発想や人間的な魅力は、組織に頼らずに生きていく人たちにとっても、役立つ知恵と言えるでしょう。

「基本を守って、絶えず新しいやり方を考える」

小野二郎さんを世界に広めた立役者の一人に、史上最多のミシュランの星を獲得したグランシェフ、故・ジョエル・ロブション氏がいます。来日のたびに「すきやばし次郎」を訪れ、二郎さんの仕事を絶賛して、「次郎のカウンターは天国に一番近い席」と海外にも発信したことで、鮨という日本の食文化が世界の料理人の注目を集め、世界に知られるようになりました。

なぜ、すきやばし次郎の鮨は特別だったのか? それは、「もっと美味しくできないか?」と創意工夫を重ねてきた小野二郎さんの探究が、江戸前鮨の概念を超える革命的な旨さだったからでしょう。

稲藁で燻した鰹は、口いっぱいに香りが広がる二郎さんの発明。
鮑を柔らかく酒蒸しにして香り立つ鮨ネタに。
湯がきたての車海老はほんのり温かくて香りがあり、味噌も味わえる。

今、私たちが「美味しい」と思う江戸前のにぎり鮨には、二郎さんのアイディアと試行錯誤から生まれたものは少なくありません。

「鮨はご飯を美味しく食べる食事」という二郎さんは、シャリ(鮨飯)にも独特の革命をもたらしました。「家族で食べる食事はあったかいご飯でお刺身を食べる方がはるかに旨い。だから鮨飯もあったかい方がいい」と。酢飯は江戸時代から冷たいのが当たり前とされていましたが、人肌の温度でシャリを握った鮨職人は、二郎さんが初めてでした。

東京の蛸を、3年間もの試行錯誤を重ねて本場・明石の蛸の味と香りに仕上げ、蛸嫌いのロブションを唸らせたり、鰹を藁で燻して香り高く仕上げたり、以前は固い煮っ転がしだった江戸前の鮑を香り立つ蒸し鮑として鮨ネタにしたりと、今、私たちの常識となっている鮨の中には、二郎さんが新たに作り出したものがたくさんあります。

青臭い匂いを取るために、鰹は無農薬の稲藁の柔らかな火で皮目だけを丁寧に燻す。

100時間近いインタビューの中で、忘れられない二郎さんの言葉があります。

『根本と基本は同じで、美味しく、美味しく、美味しくとやっていけば、いいものができると思うんです。だからうちでは「面倒くさい」と言わずに「手間をかける」と言うんです』

どんな仕事にも、そして仕事だけでなく、生きていく上で何より大切な名言です。

二郎さんの自由な発想とたゆまない実践は、世界70ヵ国以上で公開されたドキュメンタリー映画『二郎は鮨の夢を見る』でも紹介され、世界中の料理人のみならず、大企業の経営者たちからも時代や国籍を超えてリスペクトされています。

著者プロフィール 小野二郎(おの・じろう)
大正14(1925)年、静岡県生まれ。昭和26(1951)年、東京・京橋の名店「与志乃」で鮨職人としてのキャリアを始め、昭和40(1965)年「すきやばし次郎」を開店。多くの著名人のほか、フランス料理のジョエル・ロブションら食のプロたちをも顧客として魅了。平成23(2011)年、アメリカで公開された映画『二郎は鮨の夢を見る』をきっかけに世界的名声を得る。平成26(2014)年、当時の安倍晋三首相とオバマ・アメリカ大統領が同店で会食したことが大きな話題に。同年、黄綬褒章受章。平成31(2019)年、ミシュラン三つ星レストランの最高齢料理長として、ギネス世界記録に認定。令和7(2025)年10月27日、百歳を迎えた。

すきやばし次郎
住所:東京都中央区銀座4−2−15 塚本素山ビルB1
電話:03-3535-3600
営業時間:11:30〜14:00 17:30〜20:30 *土曜日は昼のみ営業
定休日:土曜日午後、日曜、祝日

すきやばし次郎 六本木店
住所:東京都港区六本木6−12−2
電話:03-5413-6626
営業時間:11:30〜14:00 17:30〜21:00 
定休日:水曜日

写真提供/泉 健太 

構成・文/尾崎 靖 エディトリアル・ディレクター。小学館在職中に『鮨 すきやばし次郎』、『アート オブ シンプルフード』などの書籍や高砂淳二氏はじめ多くの写真家の写真集を編集。現在は、フリーランスで谷川俊太郎著『楽園』や本木雅弘作品集『awai 刹那と永遠のまにまに』などを編集。写真家のキャビネットに眠っているフィルムを発掘して発表する「Dear Film Project」としても活動している。

※本記事には今日では不適切とされる表現がありますが、著者の幼少期の大正時代の背景を考慮して当時のままの表現にしています。ご了承ください。

 

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