文/濱田浩一郎

精神論を展開する主君・勝家に撤退を具申した武将とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」において柴田勝家は山口馬木也さんが演じています。
勝家は織田信長の重臣でしたが、信長死後は羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでついに秀吉と激突します。しかし勝家は秀吉に敗れ、越前国(現在の福井県)の居城(北ノ庄城)に退くことになりました。味方の軍勢が減っていても当初、勝家はまだ秀吉軍と戦うつもりでいました(『太閤記』)。
重臣らはその勝家の姿勢を危ぶみますが、勝家は「千騎ばかりの軍勢でも一心一体となり、決死の決意でもって合戦に臨めば勝利を収めることができる」と精神論を展開。鼻息荒い主君の考えに反論できない場合もあるでしょうが、ここで反対意見を言上したのが家臣の毛受勝介。勝介は「敵(秀吉軍)の勢いを見て恐れて逃亡した兵士が多く、既に半数が脱落しております。昨日、先手の軍勢が御命令に従わなかったこと、そしてこのように逃亡者が多いことは、最早、御運が尽きた証拠にございます。ここで不甲斐なく雑兵の手にかかり討ち死にされたら、後悔することになりましょう。北ノ庄城に戻られて自害されますように。私は殿の馬印をお預かりし、身代わりとなって討ち死にする覚悟。急ぎ、帰陣されますように」と主君・勝家に厳しく忠告したのです。
勝家は勝介の諫言をもっともだと受け入れました。そして旗指物を勝介に預けて、馬を急がせるのです。追撃してくる秀吉方の軍勢の中には、柴田の馬印を見て「あれに修理亮(勝家)がいるぞ。バラバラに駆け寄ってはならぬ」と慎重に振る舞う者もいれば、逆に勝家を討ち名を上げんとする者もいました。秀吉軍は柴田方の軍勢を何重にも包囲しますが、勝介はそこで「天下に隠れなき鬼柴田とは我がことぞ」と大音声で名乗るのです。敵軍に向けて突っ込む勝介。敵は勝介の勢いに呑まれて2町ほど退きます(『太閤記』)。
ちなみにその時、柴田軍の殿(しんがり)を担っていたのが勝介の兄・毛受茂左衛門でした。茂左衛門は弟が主君・勝家の身代わりになったことを知ると「共に討ち死にせん」と引き返します。勝介は兄を喜んで迎えますが「兄上は母への孝養を尽くすため、引き返してくだされ。そうしてこそ殿(勝家)もお喜びになろう」と懇願しました。ところが茂左衛門は「お前を見捨てて退いたならば、後世まで我が名を汚すことになろう。母上は義理固いお方。義を捨てて退いたとなれば、それは母上の心にも背くことになる。義を汚すことはできない」と主張し、その場に残ることになります。
強大な秀吉軍を相手に勝介らは奮戦しますが、味方は次々に負傷あるいは討ち死にしていきました。その時、勝介は兄に向かい「殿が退却されて一刻は過ぎたでしょう。無事に退かれたはず。ここで最後の合戦を挑み、腹切って果てましょうぞ」と告げるのです。勝介と茂左衛門は残兵を集め、秀吉軍に突撃し、散々に戦った後、切腹したのでした。その忠勇を当時の子供たちまでも讃えたと『太閤記』にはあります。
『太閤記』は柴田勝家の最期をどのように評したのか?
勝家は勝介らの奮戦もあって、無事に居城に辿り着きました。しかしその北ノ庄城にも秀吉方の軍勢が押し寄せてきます。そして城を包囲し、火攻めにするのです。城内からは鉄砲が打ちかけられますが、その弾に無駄玉はなかったと言います。これをもってして『太閤記』は秀吉の宿敵とも言うべき勝家を「名将」と評価しているのです。大軍相手に奮闘する籠城方ではありますが、勝家の子・柴田権六や佐久間盛政が捕縛されたとの知らせが入ると、城内は意気消沈。激しい防戦はなくなります。最早これまでと観念した勝家は家臣らと最後の酒宴を催行。
妻のお市の方と共に城内で果てるのでした。
その最後は潔いものだったと『太閤記』にはあります。勝家は同書において、秀吉の才知や武勇を妬む存在として描かれることもありましたが、その最後は立派であったと評しているのでした。また秀吉は忠死を遂げた勝家の臣・毛受勝介を称賛、その母や妹に領地を与えたと同書にはあります。12歳の頃から勝家に仕えた勝介を、同書は貧しい者を憐れみ、友に信愛厚い人物として称賛しているのでした。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











