文・写真/冨久岡ナヲ (海外書き人クラブ/英国在住ライター)

昨年9月、ロンドンに2つの新しい地下鉄駅がオープンした。隣り合う2つの駅はロンドンの北と南を結ぶ「ノーザン線」を南側に延ばした形で設置されている。今世紀初の新駅の誕生で地下鉄駅の総数は272となった。

延長工事は2015年にスタートしたのだが、完成まであと1年というところでコロナ禍に襲われた。ロックダウンによる作業停止、感染した作業員の隔離による人手不足、そして世界的な建築資材不足などとにかくありとあらゆる障害に見舞われたのだが、なんとか9月の開通予定日をクリアした。最初に決めた完成日に間に合うこと自体が英国では平常時でもとても珍しいので、世間からは「奇跡だ」と喝采を受けたくらいだ。

ノーザン線(Northern Line)に新しくできたバタシー・パワーステーション地下鉄駅。

この2つの駅の名称は「バタシー・パワーステーション(Battersea Power Station)」と「ナイン・エルムズ (Nine Elms)」だ。そしてこの新しい駅はこれから、欧州最大規模の再開発プロジェクト「ヴォックスホール・ナイン・エルムス・バタシー(The Vauxhall Nine Elms Battersea=略してVNEB)」とテムズ川の北側を繋ぐ重要な役割を担うことになる。

VNEBプロジェクトは、ロンドンの真ん中を東西に流れるテムズ川の南側リバーサイド一角を占める一帯での取り組みだ。その総面積はなんと230万平米。東京ドームが50個近く収まるほどのスケールで2つの区にまたがり、新駅を含めて4つの地下鉄駅とリバーボート桟橋2つを擁するほか、川の対岸には3つの橋がかかっている。国の主導ではなく地方行政と開発デベロッパー複数が共同で設立した法人が全体管理をするが、実質的には多数の区画別プロジェクトの集合体となっている。

この巨大な再開発エリアを象徴するランドマークとなっているのが、バタシー旧火力発電所「Battersea Power Station(https://batterseapowerstation.co.uk/)」だ。1930年代に建立され4本の巨大な煙突がそびえるインパクトたっぷりの外見から、映画やレコードのアルバムカバーなどにひんぱんに登場してきた。

最も有名なのは、ビートルズの映画「ヘルプ!」と、プログレバンド、ピンクフロイドのミュージックビデオだろう。また、シンガー浜崎あゆみのアルバム「パーティー・クィーン」のビデオはここで撮影され、背景にこの発電所を見ることができる。

画面ではかなりくたびれた外見に見えるがそれもそのはず。1983年に廃炉されて以来、取り壊し計画が出るたびに「庶民のランドマークを守れ!」という反対運動がおこり、第2級保存指定建造物となり手がつけられずに放置されてきたのだった。

ピンクフロイドのアルバム「アニマルズ(1977年)」のカバー写真。発電所の上に豚をかたどった巨大なピンクの風船を飛ばした。隣接する展示室のパネルから。

2012年に東南アジアのデベロッパーがここを購入してやっと、外観はそっくりそのまま修復して残し、内部を高級住宅、オフィス、ショッピングセンターを含む複合施設として作り直すことが決まった。

それに伴ってついに念願の広域再開発計画も立ち上がる。2万戸の高層住宅とそれを支えるインフラの充実した「街」をテムズ南岸に作るというVNEB構想が明らかになると、さっそく在英米国大使館がこのエリアへの移転を決めた。旧発電所にはアップルUK本社やミュージシャンのスティングも入居を発表し、富裕層と海外投資家の注目を集めて住宅の販売予約はすこぶる好評なスタートを切った。

こちらはナインエルムス地下鉄駅。歩行者も庶民的な身なりでタワマン街の入り口には見えない。

まずは新駅のひとつ、ナイン・エルムス駅で地下鉄を降り新しい米国大使館に向かって歩くと、駅周辺のつましい公団住宅と川に向かって所狭しと並ぶ高級マンション群の対比が、英国でも広がるばかりの収入格差を象徴している気がする。個性的なデザインの大使館対面を見上げれば、2つの高級マンションの間にガラス箱のようなプールが橋のようにかかっている。もちろん住民専用だ。販売物件の多くはワンルームでも日本円で約1.2億円より、発電所の最上階ペントハウスは約12億円という価格なので、購入者は富裕層と海外投資家が圧倒的だ。

目を引くデザインの在英米国大使館は12階建て、サステナブルな建材が使われている。
底面もガラス張りの「スカイ・プール」を備えたマンション。屋上にはサンラウンジやレストランもある。

大使館を後にし、川沿いを発電所へ向かって歩いていくと対岸の地平線にビッグベンや国会議事堂につらなる官庁ビル群が見える。橋を渡ればロンドンのど真ん中、というとんでもないロケーションの良さを実感する。

ただ駅は予定通りに完成したが全体の建設作業は相当に遅れていて、コロナ禍の経済的影響で倒産したり手を引いたデベロッパーも少なくない。そして在宅勤務の定着でロンドンを脱出しカントリーサイドに移住するトレンドが続き、都心の物件はやや値下がりしているため投資家はもう群がっていない。このため買い手のつかないマンションがかなりあるらしい。すでに住んでいる人はいるが、どちらを向いてもまだ建築現場という印象は免れない。

発電所自体の外観はすでにきれいにお化粧直しをされ、昨年5月から少しづつ入居が始まっている。レストランとショッピングエリアの一部もオープンし寒空にも関わらず賑わっており、いままで「退屈な南」と呼ばれていたテムズ川の南エリアがこれからどんどん活性化されていきそうだ。

大掛かりな外装修復の終わったバタシー旧発電所。オリジナルの壁にマッチさせるため175万個の煉瓦が新たに製造され使われた。

それにしても、この再開発エリア全体の雰囲気はどう見てもイギリスらしくない。中近東やアジアからの買い手が多いこともあって、顧客層が好む前衛的で豪奢なデザインの建物だらけだからだろうか。一帯はいつしか「テムズ川のドバイ」と呼ばれるようになっている。

そんな中で、煉瓦造りの発電所のどっしりと落ち着いたたたずまいはこの上なく貴重だ。いつかこのエリアを訪れる機会があったなら、20世紀にロンドンの電力需要を支え数々の映画や写真に登場したここバタシー旧火力発電所と、過去の姿を振り返ることのできる発電所展示室にぜひ寄ってほしい。

VNEBナイン・エルムス地域案内 https://nineelmslondon.com/

文・写真/冨久岡ナヲ (英国在住ライター)
ロンドン在住のジャーナリスト、英国ビジネスや時事ネタを中心に執筆中。旅と鉄道と食が趣味。共著に「コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿(光文社新書)」がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/

 

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