文・写真/中野千恵子(海外書き人クラブ / インドネシア・ジャカルタ在住ライター)
インドネシアが世界に誇る伝統芸能「ワヤンクリット」。2003年11月7日にユネスコから「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」を受け、2009年9月に世界無形文化遺産に登録された伝統影絵芝居だ。ワヤンクリットとは何なのか、どんなところに魅力があるのか、また、日本人が鑑賞する場合の楽しみ方はどうなのか。ジャカルタに在住し、これまでにおよそ300本近くを鑑賞してきた筆者が、その経験を踏まえてご紹介する。
ワヤンクリットは、ジャワで15世紀後半から行われている伝統人形芝居だ。ルーツとなっているのは10世紀の絵巻物を使ったワヤンべベルで、次第に絵巻物の登場人物が1体ずつ人形として制作されるようになり、現在のワヤンクリットの上演形式が確立された。
ワヤンクリットのクリットはインドネシア語で「皮」という意味で、人形は水牛の皮に美しい色と細工を施して作られ、平たい形をしている。この人形をダラン(人形遣い)がクリル(白い幕)の前で操作しながら台詞を語り、物語を進行する。ダランの頭上にはブレンチョンと呼ばれる照明が設置されており、クリルの向こう側では白黒の幻想的な影絵の世界が展開される。
上演の伴奏は約20人の奏者によるジャワガムランで、芸達者なシンデン(女性歌手)が歌とトークで盛り立てる。
上演は通常、土曜日の夜8時頃から翌朝4時過ぎまで徹夜で行われる。費用は主催者持ちで、観客は無料で観賞できるため、娯楽が少なかった時代からジャワの人々の大きな楽しみとなっており、現在も有名なダランの上演があると4000人前後が会場を訪れる。
上演される地域は、ジャワ文化のメッカ、ジョグジャカルタやソロを中心に、首都ジャカルタでも頻繁に行われている。なお、コロナ禍に入ってからは、無観客生配信や時間短縮上演、日中の開催などに形が変わっているが、上演そのものは続いている。
筆者が考えるワヤンクリットの魅力は、物語の内容と上演の構成、そしてジャワガムランの音色だ。物語は、インドの抒情詩ラーマーヤナやマハーバーラタからのストーリーがほとんどで、中でも、親族同士が骨肉の争いをするマハーバーラタは人気が高く、ジャカルタでの上演の95%はマハーバーラタと言っていい。
上演は、単にストーリーを追うのではなく、ダランが独自の解釈や脚色、演出を交えて進めるので奥が深く、生き方を考えさせられるような場面や学びが得られるようなシーンがたびたび出てくる。そのため何度見ても飽きることがなく、時には鑑賞しながら感動のあまり涙ぐむ観客もいるほどだ。
ただし、約8時間の上演がずっとシビアな内容では見る方も演じる方もしんどいということから、本編の合間に2回、コメディータイムが入る。この時間帯には、ダランとシンデンがジョークを言い合ったり、観客が曲に合わせて踊りながらシンデンにおひねりを渡したりする。本編とコメディータイムの緩急のつけ方はなかなか面白い。
ジャワガムランによる伴奏は、場面に合わせて穏やかだったり、激しかったり、切々とした悲しい感じになったりする。ガムラン奏者の近くで演奏を聴くと、激しい演奏の時は音の圧や空気の振動が感じられるほど迫力がある。そしてしっとりした曲の時は、魂が奪われそうな美しい音色に自分が包まれるのがわかる。配信では絶対に得られないこの感覚を味わうためだけでも会場に行く価値がある。
さて、ここまで、ワヤンクリットについて、また、その魅力についてご紹介してきた。では、一般的に日本人が鑑賞する場合は楽しめるのだろうか。最大のネックとなるのは言葉だ。上演はジャワ語で行われるので、ダランの語りが理解できない。つまり、ストーリーが追えないのである。筆者もジャワ語はわからないため、解決策として、ラーマーヤナやマハーバーラタのあらすじと主要な登場人物を頭に入れるようにしている。そして、事前にラコン(演目)がわかる場合は、ネットで内容を調べておく。すると、想像力も駆使しつつ、ある程度、話が追えるようになる。
もちろん、ストーリーを追う以外にも、ダランの巧みな人形捌きを見たり、歌手、奏者、観客の人間観察をしたり、ガムランの音色に浸ったりと、ワヤンクリットには楽しめる要素がたくさんある。長丁場なので、眠くなったら居眠りをしていいし、実際、会場の床にござを敷いて横になっている人もたくさんいる。
日本人だから得をすることもある。ジャワ人は親日的でフレンドリーなので、日本人が会場に行くと、前の席や、舞台上のガムラン奏者の間のスペースを勧めてくれる。舞台上の場所が確保できれば貴重な上演をかぶりつきで見ることができるのでラッキーだ。きらびやかな人形が生き生き動く様を眺め、大迫力のガムラン音楽に身を委ねれば、非日常の世界に行けること間違いなしだ。
なお、ワヤンクリットは日本語で影絵芝居と訳されるため、日本人の間では白黒の影側から見るイメージが強いが、ジャワ人は大多数がダラン側から鑑賞する。踊ったり、シンデンにおひねりを渡したり、居眠りしたり、涙ぐんだり。ジャワ人もそれぞれに楽しんでいるので、日本人も機会があればぜひ気楽に鑑賞してほしい。
文・写真 / 中野千恵子(インドネシア・ジャカルタ在住ライター) 2002年よりインドネシア・ジャカルタ在住。在留邦人向け月刊誌「さらさ」編集長としてインドネシアの食、文化、観光などについて発信中。ジャワの伝統音楽ガムランにも精通。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。