幕末から明治・大正・昭和の初めを生きた渋沢栄一。彼の足跡は実業界だけでなく、民間外交・教育・福祉と多方面に広がる。91年の多彩な生涯を追う。

教育・福祉・医療事業、人材育成に道を拓く

「商法講習所」での授業の様子。米国のビジネス・カレッジを手本に、授業は英語で商取引の実務も体験させた。渋沢史料館蔵
日本女子大学校校長の就任挨拶をする栄一。彼は古稀の歳に一部を除き役職を辞任したが、教育には生涯かかわった。渋沢史料館蔵

渋沢栄一が金融や交通のインフラ整備を進めるなかで、実業界の人材育成が急務だった。明治8年(1875)、産業の指導者育成のために商法講習所が設立された。

その後、講習所は東京高等商業学校へ昇格。栄一は大学への昇格を目指したが、東京帝国大学の法科に商科大学を置き、高等商業学校はそのままにする案が浮上した。

栄一は専門に特化した商業大学の必要性を強調。ねばり強く交渉し大正9年(1920)、ようやく東京商科大学への昇格が実現した。それがいまの一橋大学だ。

栄一は女子教育も支援した。前出の井上潤さんは語る。

「栄一に女子教育の必要性を説いたのは、後に日本女子大学校を創立する成瀬仁蔵(※1858~1919。周防国(山口県)出身。キリスト教牧師)です。女子教育に一抹の不安をもっていた栄一は、成瀬と出会いその重要性を再認識し、亡くなる年に日本女子大学校の校長に就任しています」

東京養育院の院長に就任

養育院井ノ頭学校の児童たち。東京府養育院は、現在は東京都健康長寿医療センターとして活動が引き継がれる。渋沢史料館蔵

栄一の活動で見逃せないのは、早くから福祉事業に取り組んだことだ。渋沢史料館館長・井上潤さんは、栄一のふたつの体験が見逃せないという。

「ひとつはパリのナポレオンの墓で見た傷痍軍人たち。彼らは不自由な身体ながら、各自ができる仕事を受け持っていた。栄一はそんな社会の有り様に胸を打たれた。

もうひとつは母親の記憶。彼の母はハンセン病患者の面倒を見ていた。患者がお礼にと持ってきたお団子を、一緒に食べようといって栄一に差し出した。栄一はそれを口にし、母親の慈悲深さに心打たれたのです」(井上さん)

栄一は大蔵省を退官後間もなく、浮浪者や孤児を修養する東京府養育院院長に就任。亡くなるまでの約60年間、院長を続けた。資本主義の父・渋沢栄一は、女子教育や福祉事業の先駆者でもあったのだ。

昭和4年(1929)の揮毫中の栄一。10代のときに書と漢詩を学習し「書は無心になれるのが愉快」と語っていた。渋沢史料館蔵

※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。

 

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