文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

数々の映画や物語で知られるロビン・フッド伝説。イギリス、ノッティンガムを舞台に義賊たちが活躍する物語はあまりに有名だが、実はオーストリアには、このロビン・フッドと裏表の関係にある別の伝説が残されている。

ロビン・フッドが活躍したのは、主君のリチャード獅子心王が弟のジョンに国を任せ、第3次十字軍参加のために国を留守にしていた時期だ。しかし、そのリチャード王が十字軍の帰路にオーストリアで誘拐され、13か月もの間囚われの身となっていたという事実は、あまり知られていない。

なぜ獅子心王は幽閉されたのか?黒幕は誰か?そして、どうやって幽閉場所が発見され、解放に至ったのか?欧州中を巻き込んだリチャード獅子心王誘拐事件の、謎と伝説に迫る。

リチャード王が幽閉されていたデュルンシュタイン城の廃墟

第3次十字軍の仲間割れ

リチャード獅子心王は、勇猛果敢なイングランド王として後世に知られているが、実は10年の在位のうち、自国に滞在したのはたった半年で、統治期間のほとんどを国外で過ごしている。その中でも、第3次十字軍では、結果的に合計4年間も国を空けることとなってしまった。その原因は、本人が招いた名誉棄損事件だ。

第3次十字軍には、イングランド王リチャード獅子心王の他に、フランスのフィリップ2世、オーストリア公爵レオポルト5世など、大国の君主が参加していた。しかし、互いに反目し合っていたため、協力してイスラム世界から聖地を守るような盤石な体制は築かれていなかった。

デュルンシュタイン城のふもとにある、主要人物を紹介したパネル。中央に座るのがリチャード王で、その右が宿敵フランス王フィリップ2世。一番左で赤白赤の盾を持つ人物が、オーストリア公爵レオポルト5世。右奥の弓を構える人物はロビン・フッド

キリスト教側連合軍は、1191年7月にアッコンの包囲戦でイスラム軍に勝利するが、君主同士は勝利の喜びを分かつどころか、激しい仲間割れを起こした。

勝利のしるしとして、神聖ローマ皇帝代理を務めていたオーストリア公爵レオポルト5世は、イギリス、フランスの旗と共に、自身の旗を打ち立てた。王家の旗に公爵家の旗が並ぶことに腹を立てたリチャード王の臣下は、その旗を引き下ろし、堀に投げ捨てたのだ。名誉を汚され怒ったレオポルト5世は、すぐに十字軍を去り、その後領地でもめたフィリップ2世も帰国し、リチャード王は取り残される形となった。

さらに、リチャード王は帰国の途上で船が難破してしまい、変装して陸路でイギリスまでの道を急ぐこととなった。しかしその陸路は、アッコンの戦いで遺恨のある君主たちが治める国だ。名誉を汚されたオーストリア公爵レオポルト5世は、このチャンスを見逃さなかった。

ウィーンでの誘拐と幽閉

レオポルト5世の元には、変装して旅を続けるリチャード王の情報が逐一入っていた。リチャード王がウィーンに南から近づき、エルトベルク(Erdberg)の宿に到着した時、みすぼらしい巡礼者に似合わない豪華な指輪をつけ、異国の金貨を両替しようとしているその姿は、目立ちすぎていた。

1192年12月21日ごろ、リチャード王はレオポルト5世によって捕らえられ、臣下のクーエンリング家ハドマー2世の居城である、デュルンシュタイ城に幽閉される。アッコンの恨みをウィーンで晴らしたのだ。

リチャード王が捕らえられた宿屋は、写真の黄色い建物のある場所にあったとされている

このデュルンシュタイン城は、現在世界遺産になっている美しいヴァッハウ渓谷にある、ドナウ川を見下ろす古城だ。現在でも廃墟に登り、リチャード王が眺めた眺望を楽しむことができる。

デュルンシュタイン城の廃墟までの道は、ハイキングコースとして整備されている

王を探す吟遊詩人

デュルンシュタイン城に幽閉されたリチャード王を探して、忠臣が吟遊詩人に身をやつして旅をする物語が、オーストリアには残されている。「金髪の歌い手」を意味するセンガー・ブロンデル伝説だ。

当時このドナウ川流域には多くの城が建ち、吟遊詩人が行き交うルートとして、中世文化が栄えていた。

デュルンシュタイン城からのドナウ川の眺め

いつまでたっても十字軍から戻らない王を心配したリチャード王の家臣ブロンデルは、吟遊詩人に身をやつし、城から城をめぐり、夜な夜な城主たちのために歌を歌っていた。こうやって王を探す旅を続けていたある日、デュルンシュタイン城に招かれたブロンデルがとある歌を歌うと、奥の方から続きを歌う歌声が聞こえてきた。この歌は、ブロンデルとリチャード王の思い出の歌だ。声の主が王であることを確信したブロンデルは、祖国に戻り、王が生きている事と、幽閉されている城を伝えた。

これが、ブロンデル伝説だ。ヴァッハウ渓谷には、このブロンデルとリチャード王を象った像もあり、知らない人はいない有名な伝説として語り継がれている。

ヴァッハウ渓谷に建つ馬上のリチャード王と、吟遊詩人姿のセンガー・ブロンデル像

実際は、リチャード王を捕らえたレオポルト5世は、王の幽閉場所を秘密にしていたわけではなく、身代金を得るために大っぴらにしていたとも伝えられている。しかし、吟遊詩人の行きかうドナウ川流域らしい、中世ロマンのある伝説である。

古城の城下町デュルンシュタインには、「リチャード獅子心王ホテル」や「センガー・ブロンデル・ゲストハウス」もあり、地元の人にも親しまれている伝説だ

王の解放と身代金

リチャード王の幽閉事件は、欧州全体を巻き込んだ。十字軍でリチャード王と領土の事でもめたフランス王フィリップ2世は、イギリスを任されていたリチャードの弟ジョンをそそのかし、王位簒奪をくわだてた。また、ローマ教皇は、十字軍からの帰還者を幽閉したことに怒り、レオポルト5世を破門にした(後に撤回)。

仲介者として名乗りを上げたのは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世だ。度重なる交渉の結果、イギリスは23.4トンもの銀を身代金として支払うことに決まった。王を取り戻すため、重税が課せられ、教会の宝物が大量に召し上げられた。

1193年春にオーストリアからドイツに移送されたリチャード王は、身代金の到着後、1194年2月4日にようやく解放された。

ロビン・フッド伝説は、王の帰還でハッピーエンドを迎えることが多いが、物語の裏では、欧州中の君主と大量の身代金が動いていたのだ。

オーストリアの発展を支えた身代金

イギリスが支払った身代金の銀のうち、半分は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が、残りの半分はオーストリア公爵レオポルト5世が手にした。復讐を達成し、名誉を回復し、更に大量の銀を手に入れたオーストリア。このお金をレオポルト5世は、国力の強化に投資した。

その中で最も有名なものが、ウィーン市壁とグラーベン通りの建設だ。それまでのウィーンは、ローマ時代の古い市壁や堀を流用して町の守りとしていたが、この大量の身代金を使ってレオポルト5世は、新しい防衛態勢を構築したのだ。

この時建設された、ウィーン旧市街を取り囲むように作られた市壁は、19世紀末に軍事上の意味を失い、現在のリング大通りとなるまでの600年間、数々の外敵からウィーンを守り続けた。

ウィーン市壁の名残

また、現在のシュテファン大聖堂から続く目抜き通りグラーベンも、身代金を資金として作られた。グラーベンとは「掘」を意味し、ローマ時代にはここには堀があったが、それを埋め立てて道にしたというわけだ。

現在のグラーベン通り

更に、ウィーンには貨幣醸造所が作られ、ヴィーナーノイシュタットやフリードベルクの町が新しく作られ、エンスやハインブルクなどの軍事的要所の市壁が整備された。リチャード獅子心王の身代金は、オーストリアの国力増強に大きく貢献したのだ。

* * *

欧州世界を巻き込んだ、リチャード獅子心王の幽閉事件。二年間にわたるこの事件には、中世王族の名誉と復讐、忠誠と裏切り、軍事と金、古城と吟遊詩人と、中世ロマンが詰まっている。ロビン・フッド伝説や十字軍、世界遺産ヴァッハウ渓谷やウィーンの街並みを思うとき、そこにはリチャード獅子心王の軌跡が刻まれているのだ。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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