文/晏生莉衣

「教皇選挙」(コンクラーヴェ)で日本でもよく知られるようになったローマ教皇。前回レッスン(https://serai.jp/living/1244746)では、初代教皇ペトロにちなんで「聖ペトロの魚」と呼ばれているティラピアについて学びました。
その名前の由来の一つとして、ティラピアの習性と「釣れた魚の口を開けると銀貨が一枚見つかるはずだ」というイエスの言葉に触れましたが、この同じ聖書の箇所と結びついて「聖ペトロの魚」と呼ばれている別の魚がいます。
どんな魚なのでしょうか? ティラピアと似ているのでしょうか?
ティラピアではない「聖ペトロの魚」
今回紹介する「聖ペトロの魚」は、ヨーロッパではよく知られている魚で、イタリアでは聖ペトロの魚という意味の「Pesce San Pietro(ペーシェ・サン・ピエトロ)」、フランスでは聖ペトロのフランス語名「Saint Pierre (サン・ピエール)」などと、それぞれの国の言葉で聖ペトロにちなむ名がついています。
地中海を含むヨーロッパ周辺の海をはじめ、大西洋、太平洋、インド洋といった世界の海に生きるグローバルな魚で、温暖な海域の底付近を泳いでいます。
日本の近海にもいて、マトウダイと呼ばれています。ゴールドがかった輝きのある胴体は卵型で平たく、体長は30~70センチメートルくらいが一般的です。
長く伸びた背びれが特徴ですが、それにもましてユニークなのは、体の側面のお腹あたりに大きな円のような黒い模様があることで、これがヨーロッパで「聖ペトロの魚」と呼ばれる由来になっています。

ペトロがとった魚の伝説
由来とされる聖書中の出来事について話をまとめると、こんなふうになります。
あるときペトロは、神殿税を徴収する人たちから「イエスは神殿税を納めないのか」と問われました。イエスは「納めなくてもよい」と示唆しながらも、ペトロにこう仰せになりました。
「湖に行って釣りをし、最初に釣れた魚を取って口を開けると銀貨一枚が見つかるはずだ。それをわたしとあなたの分として納めなさい」(マタイによる福音書17章24-27節)
聖書にはその後の顛末は記されていませんが、ペトロがイエスから言われたとおりに釣りをすると、とった魚の口の中から本当に銀貨が出てきた ―― キリスト教信仰ではそんなふうに一種の奇跡として解釈されています。
そして、魚のお腹にある円紋は、イエスの言葉にしたがってペトロが魚をつかまえて、魚の口から銀貨を取り出した際についたペトロの指の跡だと、いつしか言い伝えられるようになったのです。
そんな聖なる名前ゆえでしょうか。この魚には、ギリシャ神話の最高神であるゼウスにちなんだとされるZeus faber(「ゼウスの職人」というような意味)という学名がついています。
日本でのマトウダイの存在感
日本ではそうした聖なる言い伝えとはあまりなじみがありません。マトウダイは日本での標準和名ですが、口を前に大きく伸ばしてエサをとるときの様子が馬の頭の形に似ていることから、漢字で「馬頭鯛」と書いてマトウダイと呼ばれるようになったとするいわれがあります。
また、お腹の円紋が弓道の的のように見えることから「的鯛」と書かれて、マトダイと呼ばれてもいます。ほかにも、バトウ(島根県、京都府など)、ツキノワ(鳥取県など)、オオバ(山口県など)、カネタタキ(新潟県、愛媛県など)というように、地方によって独自の呼び方があるのもこの魚の面白いところです。
呼び名がいろいろあるように、日本でもマトウダイはとれますが、流通量が少ないので全国的に知られたメジャーな魚とはなっていないようです。それでも寒い季節になると、日本の魚市場にもマトウダイが姿を見せることがあります。
マトウダイのお腹にある人目を引く黒い斑点模様は、眼状紋(がんじょうもん)や眼状斑(がんじょうはん)といわれるもので(英語ではfalse eyes、eyespots)、魚類だけでなく、さまざまな生物の体に認められます。
わかりやすく目玉模様ともいわれますが、外敵を威嚇したり撹乱させたりすることで生存力を高めるという役割があり、一種の防御メカニズムと考えられています。
2つの「聖ペトロの魚」の違いは?
聖ペトロの名を同じく冠するティラピアとマトウダイ。共通点をあげると、ティラピアは日本ではイズミダイとも呼ばれ、イズミダイもマトウダイも鯛(タイ)を思わせる名を持つ白身魚ですが、いずれの魚も鯛の仲間ではありません。
では、どちらが本物の「聖ペトロの魚」なのかといえば、どちらも本物というのが正しいでしょう。
イスラエルのガリラヤ湖付近のローカルレストランで「聖ペトロの魚」として提供されるのはティラピア(前回参照)、ヨーロッパの国々や地中海エリアで「聖ペトロの魚」として料理されるのはマトウダイ。そんなふうに区別できます。
魚の生態に注目すると、ティラピアは群れで泳ぎ、マトウダイは単独で泳ぐという違いがあり、ティラピアは一度の網漁で数多くとれることが多いですが、マトウダイは基本的に一匹単位でとるスタイルになります。
こうした違いから漁獲量に差があることに加え、養殖も盛んで世界的に流通量が多いティラピアは大衆魚。天然魚の漁獲が不安定で、飼育のむずかしさから養殖向きでもないマトウダイは、流通量が限られるけれども特にヨーロッパでは人気があって需要が高いことから高級魚という扱いになるのでしょう。
日本ではいずれも食卓に上ることの少ない魚ですが、日本にとってティラピアはアフリカ原産の外来種。一方、マトウダイは日本近海にも自然に生息している魚ですので外来種ではありません。
ヨーロッパではとても高級なお魚
このマトウダイ、ちょっと怖い感じがする外見とは裏腹に、上品で繊細な旨味があるおいしいお魚です。日本での相場はさほど高くなく、たまに学校給食で出されることもあるようですが、ヨーロッパで「聖ペトロの魚」と呼び名を変えると、かなりの高級食材となります。
ヨーロッパを旅してグルメなレストランやリストランテで「聖ペトロの魚」料理がメニューにあれば、百聞は一見にしかずとオーダーしてみてはいかがでしょうか。とはいっても、ふつうは切り身で調理されるのでお腹の「目玉模様」は観察できませんが、バターで焼いてレモンやハーブ、にんにくなどの風味を加えた「聖ペトロの魚」のムニエルを堪能できるでしょう。
日本でも、フランス料理やイタリア料理の高級レストランでは用意があるかもしれません。あるいはマトウダイの産地の鮮魚専門店でたまたま手に入ったとか、腕自慢の釣り人が自ら釣り上げたとか、そんなレアな機会があれば、日本ならではの料理法で、和風の煮付けにしたり、お鍋に入れてお味噌やポン酢で味付けしたりするのもおすすめです。新鮮なものはお刺し身でいただくこともできます。
英語ではJohn Doryと呼ばれ、ヨーロッパと海つながりのイギリスはもちろん、アメリカやオーストラリアでもとることができますが、やはり高級魚として値段の張るお魚となっているようです。
理性を超えて語られて
ところが、今回取り上げたマトウダイヴァージョンの「聖ペトロの魚」についてヨーロッパで言い伝えられる話には、一つおかしいところがあります。
どこがというと、ティラピアとマトウダイのもう一つの大きな違いに関連しているのですが、前回紹介したとおり、ティラピアは淡水魚で、淡水湖のガリラヤ湖に古くから泳いでいる魚ですが、今回の聖ペトロの魚は海水魚なので、ガリラヤ湖には生息していないのです。
つまり、ペトロがこの魚をとることはできなかった、ありえなかったはずなのです。
魚類学的にはありえない話なのですが、キリスト教信仰にもとづく民間伝承ではそんなことは無関係に、丸い模様をお腹に見せながら、「聖ペトロの魚」が深い海を悠々と泳いでいます。
新約聖書には魚にまつわるいろいろなエピソードがありますが、その一つに結びついたこの「聖ペトロの魚」は、キリスト教文化圏を生きたヨーロッパの漁師たちの素朴な信仰心と想像力の産物といえるのかもしれません。
高級食材として扱われる背景に、聖ペトロの指紋がついた神聖な魚というイメージから醸成された地域特有の文化的価値観をうかがい知ることもできるでしょう。
<注> 出典:日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』
晏生莉衣(あんじょう まりい)
教育学博士。国際協力専門家として世界のあちらこちらで研究や支援活動に従事。国際教育や異文化理解に関する指導、コンサルタントを行うほか、平和を思索する執筆にも取り組む。著書に、日本の国際貢献を考察した『他国防衛ミッション』や、その続編でメジュゴリエの超自然現象からキリスト教の信仰を問う近著『聖母の平和と我らの戦争』。











