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文/印南敦史

林家木久扇は今年、高座生活60周年の節目を迎えた。時間的にいえば、“落語家としての還暦”を迎えたようなもの。大きな節目である。

そんな大切な年に、自分の仕事や人生を形成してきたスタイルをひとつにまとめたら、濃密でおもしろい本ができるのではないか?

『イライラしたら豆を買いなさい 人生のトリセツ88のことば』(林家木久扇 著、文春新書)は、そのような思いから書かれたものだ。

僕は偉い人間でもないから、名言とか格言なんてのは似合わない。でも、世の中に対する触覚、感応力は鋭いですから、生きていくうえの作戦や戦術はずいぶん工夫してやってきました。立派な武将の兵法みたいなものではなくて、ピンチになるとその場をするするっと抜けていく野生の勘のような技なんです。そんな木久扇流の身の処し方は、先行きの見えない今の時代を生き残るためのヒントになるかもしれません。(本書「まえがき」より引用)

傘寿(さんじゅ)を越えられ、現在82歳。長寿だという自覚はなく、なんとかして長生きしようとがんばってきたわけではないとおっしゃるが、そのくらい軽やかな気持ちでいたからこそ今日があるのかもしれない。

そのため、本書も小難しさとは無縁だ。自身が生きてきた足跡をベースに、「こういう生き方もおもしろいよ」と読者に話しかけるようなスタンス。“人生に関する気楽な読み物”というような印象が強いのである。

「生まれてきてシメたな」「現実に進んだ道を『正解』にしちゃえばいい」など、ゆるくも深いメッセージが散りばめられている。そのため、読んでいるだけで不思議と、「いろいろあるけど、まぁ、なんとかなるかな」という気分になってくる。

ところで、どうしても気になってしまうのはタイトルである。イライラしたら豆を買えとは、果たしてどういうことか?

人間歳を取ると、イライラして怒りっぽくなりがちでしょう。そんなときにはね、豆を買いに行ったらいいってアドバイスしてるんです。
僕はいろんな煎り豆を買ってきて、自分オリジナルの仕方で混ぜて、パックに入れていつも持ち歩いてるんです。南京豆と柿の種とウニ豆と……あと何を混ぜるとうまくて新しい味になるのかなってやってると、もう楽しくて仕方がない(笑)。(本書216ページより引用)

「刻んだ昆布も入れたらどうか」「赤や緑の彩りの豆を混ぜるとどうか」と遊んでいると、心が落ち着くのだという。

純粋にそうした行為を楽しんでいるだけの話で、特段の意味はないのかもしれない。だとしても、そうすることで満足感が得られるのであれば、それ自体に大きな意味があるということになる。

また、本人が意図しているかどうかは別としても、「イライラしたら豆を買いに行けばいい」ということばは、なにかのメタファーであるかのように思えたりもする。

「余計なことを考えて混乱し、必要以上にイライラするのではなく、とりあえず目の前にあるものと向き合おうじゃないか」というような。

それこそ考えすぎかもしれないが、しかし、そんなことを思えば、このことばはさらに深みを感じさせるのだ。

ちなみに、そうやってつくったものは「木久扇ミックスですよ」と人にあげているそうだ。

100均の安いパックに小分けにして、『笑点』のスタッフやなんかにあげると、すごく喜ばれます。
人にものをあげるのは面白いですよ!
「こないだの、子どもが全部食べちゃったんですよ」とかって大好評。
(本書216〜217ページより引用)

だから、「豆いじりって、なかなかいいもんですよ」と著者は言う。人にもあげられて、その結果、自分の気持ちも落ち着くからだ。自身のなかにそうした経験で得たものがあるからこそ、「自分の気持ちが落ち着く習慣をひとつ持っておくといい」とも記している。

たしかに、その方法はいろいろ活用範囲が広そうだ。たとえば、暇つぶしに組み立てた模型を子どもにプレゼントするとか。あるいは、スパイスだけでつくった本格カレーを家族に振る舞うとか。

かように著者の提案は、人のためになにかをすることの大切さを再認識させてくれるのである。

* * *

仰々しいものを好まない著者は、遺言ということばが好きではないのだという。そして人生も、「あれ、そういえば近ごろ、木久ちゃん見ないな?」と周囲から言われるような感じでいなくなってしまいたいのだそうだ。

健康のことや、自分がいなくなったあとの経済的な問題など、年齢を重ねるごとにモヤモヤとした不安が増えていくものだ。しかし、だからこそ、肩肘を張らない著者の「生」に対する考え方を参考にしたいところではある。

『イライラしたら豆を買いなさい 人生のトリセツ88のことば』

林家木久扇 著
文春新書
定価:本体800円+税
発売日:2020年5月

文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)などがある。新刊は『書評の仕事』 (ワニブックスPLUS新書)。2020年6月、「日本一ネット」から「書籍執筆数日本一」と認定される。

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