文/印南敦史

高校生のころ、片岡義男さんの小説に魅了された。

たしか初めて読んだのが『ロンサム・カウボーイ』で、以後も映画にもなった大ヒット作『スローなブギにしてくれ』はもちろんのこと、『彼のオートバイ、彼女の島』『人生は野菜スープ』など、当時出ていた作品はほとんど読んでいたのではないかと思う。

つまりは、そのくらいハマっていたのだ。自分が求めている理想的な世界がそこに映し出されているとすら感じていた。

「片岡義男の小説が受けるのは、“ムード”があるからだよな」

文学に関するメンターでもあった親友は、片岡義男作品について熱く語る僕を見てそう言った。言われるまで気づかなかったがまさしくそのとおりで、他の作家にはない洗練されたムードにすっかりやられてしまっていたのだった。

でもサライ世代には、同じような道をたどってきた方々も多いのではないかと思う。片岡義男という作家はあのころ、アメリカ文化への憧れを抱く若者の心をがっちりとつかんでいたからだ。

にもかかわらず、やがて次第に距離ができていったことにさしたる理由はない。ましてや否定的な思いがあったはずもなく、ただ単に、少年から青年へと成長し、それにともなっていろいろなことが変化していっただけのことなのだろう。

しかし、それまでに体験した一連の作品は、青春時代の思い出として記憶のアーカイブにしっかりと収まることになったのだ。自分でも気がつかないうちに。

先ごろ、『いつも来る女の人』(左右社)という新刊が出たと知ったときに心が躍ったのも、きっとそのせいだ。おそらく、いかにも片岡さんらしいタイトルが、記憶のアーカイブの鍵を開けてくれたのだ。

だから、面識もないくせに、まるで懐かしい友人と再会したような気分にもなった。そしてページをめくり文字を追っていたら、 “片岡義男的世界”がまったく色褪せていないことをも実感した。

収録されているのは、“小説を書く”というテーマに基づく8篇の短編小説である。登場するのは、「小説を書く」と公言していたのに次第にそう言わなくなった男性とか、その男性にインスパイアされて書き始める女性などなど。

詳細は省くが、つまり彼らに共通するのは“小説”という部分になんらかの思いを抱いていることだ。たったそれだけのことで一冊の作品集を書けてしまうというのは、あたりまえのようで、しかし難しいことだ。

自分は小説を書く、と言い始めた男性。すでに作家になり、小説その他の文章で多忙な日々を送っている、女性。彼女たちが三十代前半で、男性たちは二十代の後半だ。五年から七年の差がある。短編をひとつ書くときには、物語を支えつつ前へと進めていくのにもっともふさわしい人物を、書き手の僕は造形している。(本書「あとがき」より)

重要なのは、その“造形”という部分だ。つまり、ここに登場する男女は“片岡義男的世界の住人”であり、いいかえれば“どこにもいない人たち”なのである。

それは、会話を確認してみればよくわかる。

「こんなところで」
と言って三浦は立ちどまった。改札ゲートとは反対側の壁の前に、ふたりは立った。
「打ち合わせの場所に指定された喫茶店が、この近くだった」
と、三浦は南口の階段のほうを示した。
「打ち合わせは終わり、僕はこの改札を入って上り電車に乗ろうとしてた」
「私は母親のご機嫌うかがい。三十歳のひとり娘が和菓子を用意して」
「せっかくだからコーヒーにしようか」
「寄ろうかなと思いながら、寄らなかった喫茶店がすぐそこにあるのよ」
「では、そこへ」
(本書13ページより)

たまたま会った知り合い同士の男女が交わすことばにしては、いささか非現実的である。それどころか、「こんなにキザな言い回しをする人はめったにいない」と感じさせもする。

だが、それでいいし、それは当然である。なぜなら彼らは、“片岡義男的世界の住人”なのだから。現実の世界でどうかという尺度で捉えること自体がナンセンスなのだ。

いまだからこそ、そう断言できる。そして、「ああ、そうか」と感じる。「結局のところ高校生のころの自分も、その“どこにもない世界と、そこに暮らす人々”に惹かれていたのだな」と。

現実にはいない人たちの会話が、実際にいる人たちのそれよりも大きなインパクトを投げかけてくるのはそのせいだ。それこそが、片岡義男さんにしか表現できない世界観なのだ。

ちなみに「いつも来る女の人」というタイトルも、登場人物のひとりのことばを引用したもの。たった8文字だけでストーリーを生み出せてしまうあたりもまた、片岡さんにしかできないことである。

『いつも来る女の人』

片岡義男 著 
左右社

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文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)などがある。新刊は『「書くのが苦手」な人のための文章術』( ‎PHP研究所)。2020年6月、「日本一ネット」から「書評執筆数日本一」と認定される。

 

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