【サライ・インタビュー】

山﨑 努さん
(やまざき・つとむ、俳優)

――映画デビュー57年、13年ぶりの主演映画が公開

「“人間のプロ”はいません。誰もが試行錯誤する“人間のアマチュア”なんです」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2018年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──13年ぶりの主演映画『モリのいる場所』が公開されます。

「“主演”だから、“脇”だからということは映画に出ることと、関係がありません。どの映画でもそうですが、まず“この監督とうまくやっていけそうだな”という感触を得て、“この役なら付き合えるかな”と思えば出演を決めます。若い頃からそうです。

今度の映画でいえば、監督・脚本の沖田修一さんとは『キツツキと雨』(2011年)でご一緒してますから、安心感をもって臨みました」

──画家・熊谷守一の最晩年を演じました。

「モリカズ(熊谷守一)さんは、その生き方や風貌から“超俗の画家”とか“仙人”などと呼ばれました。97歳で亡くなりますが、晩年の30年間は自宅から外に一歩も出なかった。あるとき、垣根づたいに30mほど外を散歩したそうですが、それ一度きり。木や草が生い茂る50坪くらいの庭を天地のすべてとし、両手に杖を持って歩き回っていた稀有な人です。

僕は以前からモリカズさんが好きでした。10数年前に画文集を手にし、その深い色合いに衝撃を受けたんです。なかでも『宵月』という画が好きで、あの空のブルーは何ともいえない。世の中のすべてが含まれているようなすごい青です。そして自伝などを読むうち、特異な人柄に惹かれていきました。僕にとって、モリカズさんはアイドルなんです」(笑)

──すんなりと役に入り込めたわけですね。

「いいえ。自分が好きな人物を演じるのは難しいということが、改めてわかりました。役づくりというのは、その人物の欠点とまではいわないけれど“ 歪み”を見つけることなんです。よくいえば個性とか人柄なんですが、その人物の歪んでいる部分を探り出す。人生のうまくいかない、世間とうまく折り合いのつかない部分を探し、そこから役に入ってゆく。ところが、大好きな人物だとそれがなか
なか見つからない。今回は苦労しました」

──何が突破口になったのですか。

「“超俗の人”といわれたモリカズさんは穏やかで、でき上がった人物のように思われています。しかし、“超俗”だったらもう主張するものはないはずで、そういう人に創作ができるわけない。僕はそう、考えました。

モリカズさんは、我々以上に世間とうまく折り合いがつかなかった人なんじゃないか。奥さんの秀
子さんも“好きなことは人とは大きく違っていますから、付き合いは家族も含めて、そこそこになっていると思います”ということを書いていらっしゃる。

そして、モリカズさんは内に非常に激しいものをもっていたのではないか。だから、世間とうまく折り合いがつけられなくて、あるときから“我が道を行く”覚悟を決め、世間との付き合いを止めてしまった人なのだと思います。モリカズさん本人も言っています。“わたしは嫌なことがあっても、引き引き生きてきました”と。つまり、意見が違う人や非難する人がいても、自分を主張することは
せずに引いてしまう。無理に折り合いをつけようとせず、世間に対して心を隠すお面をかぶってしまった。自分の世界の中だけで生きてゆくための仮面です」

──仮面とはどういうことでしょうか。

「仮面のように自分の表情の変化、喜怒哀楽を外に出さない。表情をなるべく見せない、“表情を殺す”ということです。僕はそういうイメージを得たので、そこから役づくりを
始めました。

もっとも、表情の変化がない、ただ黙って庭を歩き回って見ている男だけでは到底ドラマになりません。熊谷守一という存在に、“生活の色”をつける数多くの俳優の芝居があってこそ映画は成立します。その生活の様みたいなものを、特に上手につくってくれたのがモリカズ夫人役の樹木希林さんです。彼女とは初共演でしたが、“表情を殺す”仮面を模索する僕の役のつくり方に実に見事に反応し
てくれました」

──俳優として大事にされていることは。

「僕のモットーは、つねに“俳優のアマチュアで、わかっていることはないんだ”ということです。実際、俳優として僕はアマチュアだと思っています。長くやっているから演じる技術は覚えたし、それで食べてもいる。でも、演技について、実は何の確信も自信ももっていません。だから、アマチュアなんです」

──なぜ俳優になられたのですか。

「都立上野高校の夜間部にいた頃、同級生に演劇好きで俳優になりたい奴がいましてね。彼から“一緒に俳優の試験を受けよう”と誘われたのが、直接のきっかけです。

当時の僕は、昼間は働いて、夜は学校へ行かず、上野公園の辺りをうろつきまわっていることが多かった。上野には映画館が4軒くらいあって、よく観てもいました。

試験の結果はよくある話でね。本気で俳優になりたかった友人はどこを受けても落ちてしまったのに、彼に付き合って受けただけの僕が合格したんです」

──幼少期は戦争のさなかです。

「戦時中は、縁故疎開で母親と千葉の山奥の村にいたんですが、終戦になった昭和20年の秋に父親が復員して帰ってきました。僕は8歳でしたが、ひとつ鮮明な記憶があるんです。ある日、“おまえの父ちゃん、帰ったぞぉ”と僕らが暮らしていた土蔵に知らせがきた。そう聞いたとき、僕は8歳のくせに演技をしたんです。親父の帰還が、さほど嬉しかったわけでもないのに“ここは息子として喜ばないといけない”と思いましてね。裸足のまま土蔵を飛び出すと、一目散に父のもとへ駆け付けたわけです」

──子供ながらの演技だったのですか。

「そうです。僕は都会っ子だったから、村の学校へ行くにも、滑りやすい粘土質の山道をいつもおっかなびっくり、へっぴり腰で通っていたくらいでね。僕はその道を裸足で、一気に駆け抜けた。途中、駆けながら自分でも、“あぁ、僕はこんな演技ができるんだな”と思っていました。そして、親父がいると聞いた家の前に着くと、ひと呼吸置いてから引き戸をバーンと勢いよく開けたわけです。

その瞬間、脇に大きなリュックを置き、お茶を飲んでいた親父が振り返りました。そのときの表情のない親父の目を見たとき“あっ、(演技を)見抜かれた”と思ったんです。そこから先は、自分がどういう行動をとったのか憶えていないんですけどね」

──真相はどうだったのですか。

「僕も親父に尋ねてみたかった。“あのとき、あなたは俺の演技を見抜いていたのか”と。聞けるものなら聞いてみたい。親父は復員から1年半くらいして、脳出血だったか、36歳という若さで急死してしまった。ですから本当はどう思ったのか、聞く機会もないまま死に別れました。結局、そのときの8歳の演技について“俺は、なんて嫌な奴なんだ”という記憶として残っています。それが、自意識というものをもった最初だったんじゃないか」

──演じる原点でもあったのでしょうか。

「そうとも言えます。つまり、ある領域というかゾーンに入ると演技ができる。痛くもかゆくもないし、熱くも寒くもない。何でもできてしまう。そういう教訓になりました」

──俳優業は60年を超えました。

「先ほども申し上げたように、僕は俳優として未だアマチュアでしかない。もっといえば、俳優業に限らず、人生全般について何もわかっていないというのが実感です。

そもそも人間というのは、何もわかっていない本当に未熟な生き物です。動物の場合は本能で生きるから何の問題もないわけですが、人間は全部自分で試行錯誤しなきゃやっていけない。子供の頃は早く大人の秘密を知りたいと焦り、青春期はホルモンに振り回される。それからも恋愛、結婚、子育てと無我夢中でやってゆくうちに、老いがやってくる。まごついているうちに寿命がつきて、ご臨終となる。これが普通の人生のパターンですが、すべてが初めての経験で、そのたびごとに手探りしながらやってゆくしかない。所詮、人間というのは“人間のアマチュア”であって、“人間のプロ”はいないんです」

──いつ頃がよかったですか。

「いいとか悪いではなく、僕がいちばん印象に残っているのは子育てを終え、娘たちが嫁に行くときのことです。それまでは、子育てに無我夢中だった。重圧の強いときって、あまり憶えていないものでしょう。

上の娘の結婚式の前の晩かな、僕が娘に“じゃあね”と言うと“パパ、ありがとう”と言って娘は嫁に行った。2番目の娘のときは前の晩に式場近くのホテルに泊まったんですが、翌朝早く、彼女が“じゃあ、行くね。いろいろありがとう”と言ったので、僕も“ありがとう、面白かったよ”と送り出したんです」

──「面白かったよ」と娘を送り出した。

「娘もね、そのひと言が印象的だったようで、それからも折に触れてよく言いました。“私も、面白かったよ”って。

振り返ってみると、今の心境としては結局、“面白かったよ”と言えることを僕はずっとやってきたような気がします。

そして、今、僕に残っている一番わからないこと、未体験なのが“死”です。これから人生の最後に直面する臨終が最大の難事でして、“面白かったよ”と最期に言えたらいいと思うんですがさて、どうやって死にゆくか。

僕自身は、死を迎えるときまでこれでいこうと思っている生き方のヒントを、眉村卓さんがお書きになった『いいかげんワールド』という小説の中に見つけたんです」

──どんな生き方なのでしょう。

「『いいかげんワールド』は、小説を書きながら大学で教えているくたびれた老人が“無気力”を武器に大冒険をする異世界ファンタジーです。主人公の老ヒーローは決して頑張らない。ピンチになったとき、敵にやられてしまいそうなときでも“まあ、なるようになるさ、どうとでもなれ”と脱力してしまう。すると、とたんに魔力が発揮されてこうなればいいなと淡く思ったことが実現する。力を抜くほど、その能力が増してゆくんです」

山?さんは自身を゛活字中毒”というほどの凄すさまじい読書家だ。いつも本を手放さない。著書『柔らかな犀の角』には、出逢った本を介して、人生への深い洞察が綴られている。撮影/宮地 工

──抵抗せず、まずは現実を受け容れると。

「そうです。現実をいったん受け容れてその上で“こうなればいいなあ”と淡く思うことが秘訣なんです。“これが現実なら受け容れよう。何とかなるさ”という生き方を、僕は死ぬまでやろうと思うんです。敵をやっつけようなんて思うつもりはありません。

僕自身、死ぬのは全然怖くないんです。実は2011年の11月13日に早期ガンの手術をしましてね、そのときも“これが現実なら受け容れよう”と」

──死を怖いと思わなかったのですか。

「まったく、怖いとは思わなかった。逆に手術は初めての体験で、面白かったですね。家族の反応もよく見えていましたし。

ただ、未だによくわからないことが起こったんです。僕は“活字中毒”で、いつも傍に本がないと駄目なんですが、入院して手術をする前後の何日間かは、本を読んでもまったく面白くなかった。手術に臨むに際して恐怖は全然ないし、ベッドで寝ているだけなんだから好きな本を読むには最適な状況じゃないですか。なのに、いくら活字を追っても頭に入ってこない。

あれは何だったのか。やっぱり恐怖があったのか、あるいは痛み止めに打った薬のせいなのか。今でもよくわかりません。ただ、退院してからは、すぐに元通りの活字中毒に戻りましたけどね」(笑)

──健康のためにしていることはありますか。

「この歳になったら、健康云々はもう気にしなくていいでしょう。好きにしていいじゃないですか。だから、酒も飲みますしたばこも喫います。家では、ひと仕事終えたら昼間でも酒を飲みます。ビールから始めて、ワインを愉しむ。外で友人と一緒のときはウィスキーも飲みますが、普段はビール、そしてワインです。ここまできたら、気前よく、命をお返ししようと思います」

●山﨑 努( やまざき・つとむ)
昭和11年、千葉県生まれ。都立上野高校卒業。俳優座養成所を経て、昭和34年、文学座入団。翌年『熱帯樹』で舞台デビュー。昭和38年、黒澤明の映画『天国と地獄』で誘拐犯を演じて脚光を浴びる。以後、幅広いジャンルで活躍。映画『八つ墓村』『影武者』『マルサの女』、舞台『リア王』、テレビドラマ『ザ・商社』『必殺仕置人』等、出演作多数。平成12年紫綬褒章、同19年旭日章受章。著書に『俳優のノート』ほか。

※この記事は『サライ』本誌2018年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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