夕刊サライは本誌では読めないプレミアムエッセイを、月~金の毎夕17:00に更新しています。木曜日は「旅行」をテーマに、角田光代さんが執筆します。

文・写真/角田光代(作家)

自分の小説のスペイン語版が出たとき、マドリッドの文学イベントに招かれた。さらにもう一冊スペイン語で出版されたときは、バルセロナのイベントに呼んでもらった。この2回ですっかり私はスペインに魅了され、ことあるごとに、スペインにいく理由はないだろうかと考えるようになった。理由などなくても行くのが旅というものなのだが、休みも取れない多忙さのなかで「行きたいから行く」のには、なんとはなしに罪悪感がつきまとう。

マドリッドマラソンにエントリーしたのは、ただマドリッドに行きたかったからだ。いわばスペイン旅行のいいわけ。

ビル上階にあるバルから見た、プエルタ・デル・ソル広場。大会前日、あまり飲まないように、といいつつ、ワイン5杯は飲みました。

さてそのマラソンであるが、スタート地点は中心街のシベーレス広場。プラド通りにランナーの列がずらり並んでスタートの号砲を聞く。そこから東京の丸の内のようなオフィス街を進む。

このマラソン大会はロックンロールマラソンという名称で、その名の通り、沿道のそこここにブースがあり、いろんなバンドが演奏している。だれもが知っている世界的ヒット曲なんかを演奏するのだろうと想像していたが、どのブースでもスペインでは有名なのだろう曲を演奏したり歌ったりしている。しかもロックっぽくない。

プラド通りに並び、スタートを待つランナーたち。この日は気持ちのよい晴天。

20km地点手前くらいから中心街に戻ってきて、このあたりは走りながら観光もできてちょっと楽しい。スペイン広場や王宮、数々の教会などに見とれているとつらいことも少し忘れる。沿道で応援してくれる人も多くなり、みな「バモス!」「アレー!」とランナーに向かって叫んでいる。ある人は、おそらくそれだけ知っている日本語なのだろう、「ありがと! ありがと!」と私に向かって真顔で叫んでくれて、こちらこそありがたくて泣きそうになってしまった。

後半は、とてつもなく大きな公園をふたつ抜けていく。この公園が本当に美しくて、気持ちよさそうで、心底楽しそうに遊ぶ家族連れの姿がたくさんあって、体はとてもつらいのに心は和む。しかし後半は、いったいだれがコースを考えたのかと本気で怒りたくなるくらいの長い長い上り坂。

ようやくのゴールはまたしても街の中心に戻り、お洒落なサラマンカ地区を通ってレティーロ公園だ。ゴール地点にいるスタッフたちが、こぞってハイタッチをしてくれる。

ようやくのゴール。スタッフたちがいっしょに喜んでくれます。

前の日はセーブして飲んだので、この日はとことん飲もうと決めていた。地下鉄のアントン・マルティン駅とセビーリャ駅の中間あたりに、飲み屋がずらりと並ぶ通りがあって、そこではしご酒をするのを楽しみにしていた。

ところが、一軒目に入った店で頼んだカヴァが、どうもするすると入っていかない。というよりも、飲んだり食べたりするのがおっくうなくらい体が重い。しかしそこで2杯飲み、飲み屋通りへと向かった。ものすごく人で賑わっている一軒があるのだが、そこは立ち飲み屋である。立って飲み食いできる気がしない。

ゴール後、すぐに飲んだビールは夢のようにおいしかったのだけれど……

テーブル席のある店に入り、ワインとともにタパスをいくつか頼んでみても、おいしいとは思うのに、たくさん飲み食いできない。ふだんフルマラソンのあとは飲んでも飲んでも飲み足りないし、食べても食べてもおなかが空いているのだが、この日は、疲れすぎていて、飲むより食べるより、横になりたい。これじゃ、ただ走りに来ただけじゃないか! と本末転倒の後悔がこみ上げる。

やっぱりマドリッドは走るより、飲みに来たほうがいいんじゃなかろうかと思いながら、それでも三軒はしごした。

スペインといえば生ハム。こういう光景を見るとわくわくします(写真はすべて2017年4月撮影)。

文・写真/角田光代(かくた・みつよ)
昭和42年、神奈川県生まれ。作家。平成2年、『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。近著に『私はあなたの記憶の中に』(小学館刊)など。

 

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