文・絵/牧野良幸

漫画家のつげ義春さんが2026年3月に亡くなられた。88歳だった。
つげ義春さんは雑誌「ガロ」などで活躍。「ねじ式」「紅い花」「無能の人」など独特の作風は漫画の枠を超えて文学作品のような味わいがあった。映画界で影響を受けた人も多く、いくつかの作品が映画化されている。
今回取り上げる映画『無能の人』も、つげ義春の漫画を原作とする作品だ。1991年公開で監督と主演を竹中直人が務めた。これが竹中直人の初監督作品でもあった。
映画の話の前に僕自身のことを書くと、僕がつげ義春という漫画家を知ったのは随分と遅い。ちょうど漫画の「無能の人」が話題になった頃だから80年代の中頃だったと思う。
初めて読んだ時は「こんな漫画があるのか!」と衝撃を受けた。当時欠かさず読んでいた少年誌や青年誌の漫画とは、明らかに違うタイプだった。懐かしい水木しげるを彷彿とさせる画風。そして言葉では表しがたいストーリー。そのどちらもが独特だった。
つげ義春のデビューは古く、1950年代だという。貸本漫画や少年漫画の時代を経て、若者に支持された漫画雑誌「ガロ」などに作品を発表。僕は大学生の時「ガロ」の存在は知っていたけれど手に取ることはなかった。手塚治虫の『火の鳥』はせっせと買い続けていたのに、つげ義春を知らなかったのは不覚だった。十代で出会っていたら、もっと影響を受けていただろう。
『無能の人』を監督した竹中直人も、つげ義春へのオマージュを隠さない。映画には漫画で描かれたシーンが出てくる。漫画の中のセリフがそのまま使われることもあれば、違う場面に挿入されていることもある。うまく脚本を作ったと思う。
映画の主人公は、かつて漫画家として活躍したものの、今は落ちぶれた助川助三(竹中直人)。助川は多摩川で拾った石を、多摩川の河川敷に小屋を建てて売っている。
初めて漫画を読んだ時、この不毛な商売を真剣にやっている主人公が衝撃的だった。はたして河原で拾った石が売れるものだろうか。
映画の冒頭、石を興味深そうに見る老夫婦もその問いを発する。
「この石はどこで取れたのかね?」と紳士風の男(須賀不二男)が尋ねる。
「この河原です」と助川。
「どこでも拾える石が売れると思うかね?」
と男はすげないが、妻(久我美子)は助川に優しい眼差しを向けている。かつて日本映画の常連だった名俳優たちがいきなり登場して、スクリーンには一気に昭和のムードが漂う。
映画の冒頭でもう一つ面白いと思ったのは、妻モモ子の顔が映らないことだ。最初は後ろ姿だけ映るアングル。助川との会話でも顔は映らない。この演出だけで、つげ義春の漫画のコマが脳裏に浮かび、ファンとしては嬉しくなる。
そうこうしているうちに、ようやく妻の顔が映る。演じているのは風吹ジュンだ。不機嫌な顔さえ可愛い。モモ子は夫が漫画をやめてしまったことに不満を抱き、団地のチラシ配りをして家計を支えている。
「あんた変わったわね。自分をダメな方に追い込んで。同じ貧乏なら、漫画を描いている貧乏の方が良かった」
とモモ子。感情を抑えた言い方は演出だろう。怒っているのにギスギスとした印象を与えず、漫画のように柔らかい時間が流れていく。
また夫婦の後ろでちょこちょこと動いている息子の三助(三東康太郎)もいい。子役というと妙に演技が達者すぎることがあるけれど、この子にはない。セリフ回しや動き、表情が素朴で、竹中監督もその魅力を活かしたのだろう。
この家族だけで十分に原作を思わせるのだが、脇を固める登場人物もおかしみがある。古本屋の主人(大杉漣)、石の協会の会長(マルセ太郎)、その妻たつ子(山口美也子)、弟子の山川(神戸浩)。みんな強烈な個性を放っている。
この映画は漫画「無能の人」のストーリーを骨格としながら、他にも「石を売る」「鳥師」「探石行」といった別の漫画のエピソードをうまく挿入して膨らませている。中でも「鳥師」に登場する鳥男(神代辰巳)は、この映画に影を落とす象徴的な役割を果たしている。
これらの漫画はシリーズだったこともあり、一本の映画としてまとめられても違和感がない。知らなければ、こういう原作なのかと思うほど自然だ。
ただ竹中監督は単なる漫画の再現にとどまらず、映画独自のアイデアも随所に盛り込んでいるようである。
僕がこの映画で一番面白かったところは、助川が妻子を連れて石のオークションに出品するシーンだ。会場は新宿にある寺。助川の石に次々と値がついて競り上がっていくと、思わぬ展開が待っている。それまで“無能の人”である夫に小言を言ってきたモモ子がまさかの行動をとるのだ。
お寺の鐘がゴーンと鳴って終わるそのシーンは、この映画で一番好きな場面だ(ここでも最後は後ろ姿)。漫画の「無能の人」とは違う展開で、この場面を挿入した脚本と監督にセンスを感じる。
「もう石なんかいやだ、漫画描いてよ!」と泣き崩れるモモ子。
助川は再び漫画を描く。しかし自信作は編集者に断られ、別のアイデアを漫画にするよう依頼されるが、助川は拒否した。
「弱虫、あんたなんか虫ケラよ」と吐き捨てるモモ子。
「そうだ、俺は虫ケラだ」と応える助川。
今日も川辺で石を売る助川。川向こうの競輪場の客を背負って運ぶ、渡し舟のような仕事も始めた。そこにいつものように三助が現れる。
「僕、迎えに来たよ」
よく考えたら、夕暮れに迎えに行くのは大人の方で、子供が大人を迎えに行くのも不思議だけれど、これもつげ義春の世界だと思う。
歩き出す助川と三助の横にモモ子も現れる。家路につく家族三人。あいかわらず貧乏なのは映画の最初と変わらないけれど、何かが変わったことが伝わり、観る者にあたたかな気持ちを残す。
あたたかいといえば、この映画には多くの俳優や著名人がさりげなく友情出演しているところも魅力だ。その中には原作者であるつげ義春の姿もある。どこに登場するかは伏せておくが、生前の作者の姿が見られるのは嬉しい。
* * *
【今日の面白すぎる日本映画】
『無能の人』
1991年
上映時間:107分
原作:つげ義春
監督:竹中直人
脚本:丸内敏治
撮影:佐々木原保志
音楽:ゴンチチ
出演者:竹中直人、風吹ジュン、三東康太郎、山口美也子、マルセ太郎ほか
文・絵/牧野良幸
1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。著書に『僕の音盤青春記 1971-1976 増補改訂版』 『少年マッキー 僕の昭和少年記 1958-1970』、『オーディオ小僧のアナログ放浪記』などがある。
ホームページ https://mackie.jp/

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