はじめに-小谷落城とはどのような事件だったのか

「小谷落城」とは、天正元年(1573)8月、北近江(現在の滋賀県北部)の戦国大名・浅井氏の居城であった小谷城が、織田信長の攻撃によって落城した出来事のことです。

小谷城は、現在の滋賀県長浜市湖北町の小谷山に築かれた山城のことで、浅井亮政(あざい・すけまさ)・久政・長政の三代の城でした。北国街道にも近く、湖北平野を見渡す交通の要衝に位置していました。

浅井長政は、信長の妹・お市を妻に迎え、いったんは織田家と同盟を結びます。しかし、越前(現在の福井県北部)の朝倉氏との関係を重んじて信長と離反。以後、浅井氏は朝倉氏とともに信長に対抗します。

3年3か月の戦いの決着となったのが、小谷城の落城でした。この記事では、「小谷落城」についてご紹介します。

小谷城 大手門

どうして小谷城は落城したのか?

小谷城が落城した直接の理由は、浅井氏が最大の後ろ盾であった朝倉氏を失い、孤立したことにあります。

元亀元年(1570)、浅井長政は信長に背き、朝倉義景と連携しました。同年の姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍が敗れますが、小谷城はなお堅固で、織田軍の攻撃にも耐え続けます。

しかし、それから3年後の天正元年(1573)、信長は小谷城攻略を本格化させます。まず小谷城背後の大嶽(おおずく)を攻略し、朝倉勢の拠点を崩しました。その後、信長は越前(現在の福井県北部)へ進んで朝倉氏を滅ぼします。

これにより、小谷城は援軍を失い、孤立しました。さらに羽柴秀吉が京極丸を占拠したことで、浅井久政がいる小丸と、浅井長政がいる本丸との連絡が断たれます。

難攻不落として知られた小谷城も、内部の連携を断たれ、ついに落城へと追い込まれたのです。

関わった人物

小谷落城に関わった主な人物についてご紹介します。

【浅井方】

浅井長政

浅井長政
浅井長政

北近江の戦国大名で、小谷城主です。織田信長の妹・市を妻に迎えましたが、朝倉氏との旧来の関係を重んじて信長と離反しました。小谷落城の際には最後まで抵抗し、最終的に自刃したとされます。

浅井久政

浅井久政
浅井久政

長政の父で、浅井氏二代当主です。長政に家督を譲ったのち、小谷城の小丸にいたと伝えられます。落城時には小丸で自刃したとされ、浅井氏の滅亡を見届けることになりました。

市

信長の妹で、浅井長政の妻です。浅井氏と織田氏を結ぶ存在でしたが、両家の対立により厳しい立場に置かれました。小谷落城に際しては、娘たちとともに城から逃されたと伝えられています。

朝倉義景

朝倉義景
朝倉義景

越前の戦国大名です。浅井氏の重要な同盟相手でしたが、天正元年(1573)に信長の攻撃を受けて滅亡します。朝倉氏の滅亡は、小谷落城を決定づける大きな要因となりました。

【織田方】

織田信長

織田信長
織田信長

浅井氏を攻め滅ぼした戦国大名です。浅井長政は義弟にあたりましたが、信長に背いたことで敵対関係となりました。朝倉氏を滅ぼしたのち、孤立した小谷城を一気に攻略しました。

羽柴秀吉

豊臣秀吉
豊臣秀吉

のちの豊臣秀吉です。小谷城攻めでは京極丸を占拠し、小丸の久政と本丸の長政の連絡を断つ重要な役割を果たしました。

浅見対馬守

浅井家臣とされる人物です。天正元年(1573)8月12日、信長軍が夜陰に乗じて城内へ入る際、その手引きをしたと伝えられています。小谷城攻略の突破口を開いた人物として重要です。

この出来事の内容と結果

小谷城は、小谷山の地形を生かした堅固な山城でした。

本丸、中丸、京極丸、小丸、山王丸などの本城域と、背後の大嶽から構成され、山中には支城や郭が点在していました。清水谷には浅井氏の居館や家臣団の屋敷があり、城下町も形成されていました。

「小谷城跡清水谷絵図」より

天正元年(1573)8月、信長はまず小谷城背後の大嶽を攻略します。ここは朝倉勢が浅井氏救援のために拠った場所で、ここを失ったことは浅井方にとって大きな痛手でした。

その後、信長は越前へ進軍して朝倉氏を滅ぼします。後ろ盾を失った小谷城は、完全に孤立しました。

そして8月下旬、織田軍は小谷城を強襲。羽柴秀吉が京極丸を占拠したことで、浅井久政のいる小丸と、浅井長政のいる本丸は分断されました。

これにより城内の連携は断たれ、小丸、本丸は相次いで陥落します。久政は小丸で、長政は本丸東の赤尾屋敷で自刃したとされます。

こうして、浅井氏三代の居城であった小谷城は落城し、浅井氏は滅亡しました。

浅井長政公自刃之地

「小谷落城」その後

小谷城と浅井氏の旧領は、戦功のあった羽柴秀吉に与えられました。これは秀吉にとって大きな転機でした。信長家臣として頭角を現していた秀吉が、北近江という重要地域を任されることになったからです。

ただし秀吉は、小谷城を長く本拠とはしませんでした。翌天正2年(1574)、湖岸の今浜に新たな城を築き、そこへ移ります。今浜はのちに「長浜」と改められ、秀吉の城下町経営の拠点となりました。

つまり、小谷城は廃城となり、城下町も長浜へ移されたと考えられています。

長浜に大谷市場・東本町・西本町・本町といった小谷由来の町名が残ることは、小谷城下の人々や町の機能が新しい城下町へ引き継がれたことを物語っています。

一方、お市の方と娘たちは城を出され、のちの歴史へ大きな足跡を残します。特に娘たちは、戦国から豊臣・徳川の時代へとつながる重要な存在となっていきました。

まとめ

小谷落城により、浅井氏は滅び、信長は北近江支配を進めます。そして、戦後に小谷城と旧領を与えられた秀吉は、長浜へ移って新たな城下町を築きました。

小谷落城は、浅井氏滅亡の悲劇であると同時に、秀吉が大名として飛躍していく大きな転機でもあったのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

関連記事

ランキング

サライ最新号
2026年
5月号

サライ最新号

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

小学館百貨店Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア

市毛良枝『百歳の景色見たいと母は言い』

花人日和(かじんびより)

和田秀樹 最新刊

75歳からの生き方ノート

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店