文/晏生莉衣

ここのところ、本連載ではキリスト教の聖書を折りに触れて引用してきました。聖書はキリスト教徒の少ない日本ではあまり身近には感じられない書物で、読んだことがない方も多いと思われますが、世界に目を向けると、聖書は史上もっとも売れている本とされるロングセラーの出版物です。ギネス世界記録では累計発行部数は50億冊から70億冊の間と推定されています。
その聖書に関して新たに注目を集めているのが、アメリカと英国で聖書の販売部数がここ数年で顕著な伸びをみせているという社会現象です。
アメリカの調査会社の統計によると、アメリカでは2021年以降、聖書の販売数の増加傾向が続いており、2024年には20年ぶりの高水準に達しました。2025年にはそこからさらに12%増加し、1900万部以上が販売されたといいます。これは過去21年間で最高の年間販売部数で、2019年の2倍以上に増えています。
また、英国のキリスト教関連団体の調査によると、2025年の英国における聖書の販売数は2019年以降134%増加し、過去20年間で最高の販売数を記録。金額ベースでは2019年の2倍以上の売上高となりました。
「聖書ブーム」の裏にあるもの
クラシックな信仰書という印象が強い聖書ですが、アメリカと英国で近年これほどまでに売上が伸びているのはどうしてでしょうか。
国際情勢にくわしい方なら、近頃のアメリカの動きをその理由として思い浮かべられるかもしれません。アメリカの政治シーンではキリスト教が好んで用いられる傾向が強まっており、聖書の語句もしばしば引用されています。キリスト教徒の支持が選挙の得票率により大きな影響力を与えるようになっているという事情も、以前からニュースなどでたびたび伝えられています。
しかし、聖書販売数アップの傾向は、アメリカでこうしたキリスト教ナショナリズムともいえる昨今の事態が顕著になった以前から同国で始まっていますし、アメリカでの政治とキリスト教の結びつきの強化は、英国社会に直接的に関与することではありません。
ではどんな理由が考えられるのかというと、2020年の新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響や、戦争の勃発、激化する政治的対立、AIの台頭などの世界的な状況変化によって、人々の間に社会的不安やメンタルヘルスの危機といった不安定な要素が広がったことが背景にあるのではないかと、調査関係者は指摘しています。
先が見えない不確実な時代に、混乱や緊張のなか、人々は心の安らぎや精神的な安定を求めるようになったという社会的背景があり、キリスト教徒の多い英米では、聖書を読むことで人生に希望や心の平和を見出そうとするスピリチュアルな探求が、聖書を買い求める動機になっているといったとらえ方ができるのかもしれません。
英国ではZ世代に変化
しかし、英国については、新型コロナウイルスが世界的に大流行する以前の2019年から聖書の売上が増加しています。これはどういうことでしょうか。
英国では若年層の自殺者数が2018年に大幅に増加して社会問題化しました。ソーシャルメディアの悪影響が主な要因の一つとしてあげられていますが、「デジタル疲れ」で悪化するメンタルヘルスに苦しむ若者たちがスピリチュアルなものに救いや慰めを求め、よりどころとして聖書にたどりついたというようにも考えられます。
事実、英国の同調査では、Z世代のキリスト教への関心の高まりが聖書の売上増の原動力になっていることが示されています。数字でみると、18~24歳の62%が自分を「非常に」または「かなり」スピリチュアルだと回答し、「無神論者だ」と答えたZ世代はわずか13%でした。
このようにキリスト教への関心が高まる一方で、信仰との関わり方には変化がみられています。教会へ行ったり宗教指導者の話を聞いたりするといった伝統的な方法ではなく、自分で聖書を読み、キリスト教の教えに込められたメッセージを自分なりに読み解いて探求するというアプローチがとられていることが、調査から示唆されています。
聖書出版の成功なのか
しかし、英米での聖書の販売部数増加は単なるマーケティングの成功の結果に過ぎないというドライな見解もあります。
英米では大人向けから子ども向け、専門的な解説付きのものからわかりやすく書かれた入門用や学習用のものなど、さまざまな読者を対象とした聖書がもとからあります。さらに近年では、カラーやイラスト、あるいは斬新なデザインをほどこした新版や特別版、豪華な革張りの高級版など、購入意欲をそそるような商品化や、聖書に答えを求める人々にターゲットを絞ったマーケティング活動が進み、その結果、聖書がより多く買われるようになったという受け止め方です。
加えて指摘されているのが、キリスト教に関するインフルエンサーの存在や、タブレット端末で読めるデジタル聖書やスマートフォン用の聖書アプリの普及といった、デジタル時代ならではの要因です。「デジタル疲れ」からデジタルの世界を離れて紙の書物を買い求める人たちがいる一方、デジタル空間にとどまってその利便性を活用する人たちもいるということでしょうか。
さまざまな分析がされていますが、それでも、聖書の販売部数の記録的な増加を、より多くの人々が宗教コンテンツを求める状況が続いていることで需要が高まっていると解釈するのはいたって自然なことでしょう。
聖書の変わらぬ魅力とは
最後に「そもそも論」となりますが、聖書はなぜ、永遠のベストセラーといわれるほど読まれ続けているのでしょうか。
根本的なこととしては、以前のレッスンで触れたように、聖書には時代を超えて人間の生きる意味を問う普遍性があります。人生の指南書として、あるいは国際教養の書、現代の国際情勢を読み解くトレンドの一冊として、一度手にとってみてはいかがでしょうか。
そうはいっても「聖書」という名がつく書籍は日本でもいろいろと売られていますので、「どれを読めばいいのかわからない」という戸惑いを感じて迷われることもあるでしょう。そうした点を含め、キリスト教の聖書についての理解を深めるレッスンを次回も続ける予定です。
(注)引用の調査はCircana BookScan及びSociety for Promoting Christian Knowledge (SPCK)によるものです。
文/晏生莉衣(あんじょう まりい)
教育学博士。国際協力専門家として世界のあちらこちらで研究や支援活動に従事。国際教育や異文化理解に関する指導、コンサルタントを行うほか、平和を思索する執筆にも取り組む。著書に、日本の国際貢献を考察した『他国防衛ミッション』や、その続編でメジュゴリエの超自然現象からキリスト教の信仰を問う近著『聖母の平和と我らの戦争』。











