
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第25回は、美しいものを好んだ小泉八雲と夏目漱石のエピソードをご紹介します。気に入ったものであれば値段を気にせず手に入れた八雲、作品の中に多くの芸術家や美術作品を登場させた漱石。いずれも確かな鑑識眼の持ち主であったようです。
文・矢島裕紀彦
絵を描くように文章を書くと称賛された八雲

小泉八雲は「ワード・ペインター」と評されていた。「絵を描くように文章を書く」という意味であろう。坪内逍遥はこう記している。
辞画家(ウォドペインタア)といふ評は屡々(しばしば)名文家の上に下される所で、小泉氏の如きも夙に此の褒称を得てゐたらしいが、私はそれだけでは足らぬやうに思った。同氏の筆は頗る音楽的である。平仄を整へるともなく、音韻を踏むともなく、語調がおのづから其の物の声になって鳴響してゐる。(『故小泉八雲氏の著作につきて』)
島崎藤村が詩人から散文作家へ転向するに当たり、小諸義塾の同僚の美術教師・三宅克己やラスキンの『近代画家論』の影響もあって、画家がスケッチするのと同じ態度で自然と人生に向き合い、観察し、『千曲川のスケッチ』を紡いだことを思い起こす。
八雲は絵心も豊かだった。米国ニューオリンズの「アイテム」紙で新聞記者として働いていた20代の頃、同紙に自筆のイラスト(挿絵)を多く掲載している。ジャーナリスティックに風刺をきかせながら、時に猫や蚊といった小さな生き物に眼差しを向けているのが特徴的だ。
来日後もメモ書きや手紙の隅にちょこちょことイラストを描き、自著の中にも挿画を掲載している。時には、教壇の黒板上で生徒たちにもその腕前を披露したようで、松江中学の教え子のひとり並河栄四郎のこんな証言も残っている。
ヘルン先生は塗板画が非常にうまかったのです。そうしてチョークを人差指と中指の間にはさんで手早く塗板に書かれた。生徒の方へ向って居て左右どちらででも書かれました。一寸した船なんか簡単に描かれました。それが誠にうまく描かれて、私共は非常に敬服しました。(『旧師小泉八雲先生を語る』)
太鼓のような民族楽器に腰掛け、ユーモアと哀切を漂わせる擬人化された蛙の姿。『怪談』の世界を彷彿させる雪女やろくろ首のスケッチ。細かい観察に裏付けられた精緻な蝉の挿画…。残されたイラストの数々からは、玄人はだしの確かな画力が伝わってくる。
絵心や観察力は、美術や骨董の鑑識眼にもつながっていた。
八雲は松江赴任から間もない明治23年(1890)9月、松江中学教頭で英語の堪能な西田千太郎と寺町の龍昌寺を散策していて、一体の石地蔵に出逢った。見事な彫りに魅せられて、僧侶に尋ねると、荒川亀斎という彫刻家の作であることが知れた。八雲はすぐに四斗樽の酒を進物として荒川の工房を訪問し、作品を見せてもらった。さらに、荒川と西田を家に招いて饗応し、芸術談義に花を咲かせた。西田の日記にはこう記される。
十月三日 彫刻師、荒川重之助氏ト共ニヘルン氏ニ招カレ鄭重ナル饗応ヲ受ケ、美術上ノ談話、頗ル愉快。コレヨリ先、ヘルン氏寺町、龍昌寺、庭前ノ一地蔵ヲ傑作ナルヲ見テ、其ノ彫刻師ガ荒川重之助(亀斎)ナルヲ聞キ、昨日モ予ト同道、氏ノ工場ニ至リテ諸種ノ製品ヲ観タリ。
荒川は腕は確かだが偏屈なところがあって貧乏な暮らしに甘んじており、八雲は敬愛をこめて「貧しき天才」の呼称を冠した。八雲はその後、東京博覧会に出品した荒川作の天智天皇像を譲り受ける一方で、荒川がシカゴ万国博覧会に出品する作品について相談を受けるなど、交友関係が生まれた。
山陰新聞の報道があってこうした話が広まると、松江市民の八雲に対する尊敬と親しみの念がいよいよ高まった。松江は茶人としても知られた松平不昧公が領した土地柄からか、古くから骨董や美術品の目利きを尊重する風潮があり、八雲のもとに美術品の鑑定を頼みにくる者まで出現したという。
夏目漱石は、江戸牛込馬場下の名主の家に生まれた幼少時から、美術に親しんだ。随筆『思ひ出す事など』にはこんな記述が読める。
小供のとき家に五六十幅の画があつた。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、又ある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独り蹲踞(うずく)まつて黙然と時を過すのを楽(たのしみ)とした。
この頃、漱石が身近にふれたのは、南画や円山四条派、江戸琳派などの書画であったと思われる。漱石は続けてこう綴っていく。
子供の事だから画の巧拙などは無論分らう筈はなかつた。好き嫌ひと云つた所で、構図の上に自分の気に入つた天然の色と形が表はれてゐれば夫で嬉しかつたのである。
鑑識上の修養を積む機会を有たなかつた余の趣味は、其後別段に新らしい変化を受けないで生長した。従つて山水によつて画を愛するの弊はあつたらうが、名前によつて画を論ずるの譏(そし)りも犯さずに済んだ。(略)如何な大家の筆になつたものでも、如何に時代を食つたものでも、自分の気に入らないものは一向顧みる義理を感じなかつた。
小児のような無垢で純粋な目と感性で、美術に対し続けたということだろう。
その後、専攻した英文学とも結びつく形で西洋美術に関心を深め、留学中のロンドンでも、漱石はたびたび美術館や博物館に足を運び、ルネサンス以降の古典名画から19世紀のラファエル前派まで、多くの作品を鑑賞した。日記(明治34年2月1日)の中に書きつけた「絵所を栗焼く人に尋ねけり」の一句は、留学中の漱石の自画像だった。ロンドンで定期購読をはじめた美術工芸雑誌『ステューディオ』は、帰国後もずっと講読を続け、東京でもさまざまな美術展の鑑賞を繰り返し行なっている。
文章の中に鮮やかに絵画を再現させた漱石
漱石文学ほど、美術と密接な関わり合いを見せる文学は、類例がないかもしれない。
たとえば『草枕』は、長沢盧雪、円山応挙、大雅、蕪村、伊藤若冲、北斎、岩佐又兵衛、ジョン・エヴァレット・ミレイ、サルヴァトール・ローザらを引き合いに出しながら、中国古典詩から日本の近世絵画、ラファエル前派まで、縦横無尽、自由自在に詩画を論じてゆく「画論小説」とも規定できる。とくにミレイの「オフィーリア」は、この小説の中心的なイメージと重ね合わされる。
『吾輩は猫である』にはイタリア画家アンドレア・デル・サルトが、『坊っちやん』にはターナーが登場し、『三四郎』の中で『森の女』という絵画を描き上げる画家・原口は、あきらかに黒田清輝がモデル。明治33年(1900)のパリ万博に出品された黒田の『湖畔』を、おそらく漱石は現地で観ていると思われる。
さらに漱石は、実際には存在しない絵画作品を物語中で創り上げ描写してもいる。『虞美人草』では酒井抱一の『芥子花図屏風』を、『門』の中では抱一の『月に秋草図屏風』を、まるでそんな絵画が実在するかのように、美しく細密に描き出したのである。
そんな漱石が自ら絵筆をとったのは、ロンドンから帰国後、東京での教師生活にも馴れた明治37年(1904)頃から。寺田寅彦、野間真綱、橋口貢・五葉兄弟ら、若い門弟たちに宛てて自筆の絵ハガキを描いて送った。今でいうなら、小池邦夫創案の「絵手紙」の世界に通じるものと言える。
こうした絵画趣味は、執筆に追われる慌ただしさの中で途切れたが、43歳の「修善寺の大患」を経て、東洋的な風合いの本格的な絵画作品が続けざまに描かれることになる。この頃の漱石には、執筆の仕事で凝り固まる心を、絵を描いて解きほぐすという、微妙な平衡感覚が働いていたようにも見える。ただ、やる以上は単なる楽しみを超えて、優れた作品を残したいという意欲も出てくる。年少の友、フランス帰りの洋画家・津田青楓宛ての書簡に漱石は切ない思いを吐露している。
私は生涯に一枚でいゝから人が見て難有(ありがた)い心持のする絵を描いて見たい 山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思ひます(大正2年12月8日付)
八雲は気に入った美術品や骨董品なども、よく買い入れていた。『思い出の記』の中でセツは回想している。
よく出来た物などを見ますとひどくそれに感じまして、賞めるのでございます。上野の絵の展覧会にはよく二人で参りました。画家の名など少しも頓着しないのです。絵が気に入りますと、金がいくら高くても安い安いと申すのです。「あなた、あの絵どう思いますか」と申しますから「おねだん余り高いですね」と私は申します。金に頓着なく買おう買おうとするのを、少し恐れてこう返事をいたすのでございます。すると「ノウ、私、金の話でないです。あの絵の話です。あなたよいと思いますか」「美しい、よい絵と思います」と申しますと「あなた、よいと思いますならば買いましょう。この価はまだ安いです。もう少し出しましょう」というのです。よいとなると価よりも沢山、金をやりたがったのです。
八雲も漱石も、作者の名前で作品を観ずに、作品と向き合ったときの自分の気持ちを評価基準にしていたということだろう。晩年の八雲は、アーネスト・フェノロサとも交流があったという。フェノロサは、近畿方面の古社寺宝物調査などを通じて見捨てられかけていた日本美術を再発見したとも言われ、東京美術学校(東京藝術大学の前身)の開校にも関わった人物である。
松江の小泉八雲記念館には、荒川亀斎が八雲に贈ったという一体の人形が保存・展示されている。私がそれを手にとって眼前に眺めたのは、もう20余年も前のことになる。全国津々浦々に、文士たちの足跡を求めて歩き続けた取材旅行の中の邂逅であった。

後方は松江城。(撮影/高橋昌嗣氏)
坊主頭のその人形は、背丈30センチ弱。下膨れの白面。垂れ目で低い鼻。唇には着物と同じ橙色の紅をさし、見るからに呑気な顔つきをしていた。その名も「気楽坊人形」。八雲は執筆に疲れたとき、傍らに置いていたこの人形を眺めて気鬱を晴らしたという。八雲が執筆に使った脚高の机の上に人形を置き、凝視するうち、その顔に一瞬の影がさし、私の頭の内を石川啄木の短歌がよぎった。
「剽軽の性なりし友の死顔の/青き疲れが/いまも目にあり」
人形も、道化は楽じゃあないらしい。私は心で呟いた。
啄木は、漱石の東京朝日新聞の後輩社員(校正係兼朝日歌壇選者)でもあったが、26歳の若さで早世している。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











