文/鈴木拓也
日本のお菓子の歴史は古い。
すでに縄文人が、栗の実を原料としたクッキーに似たものを食べていたことが知られている。その後、中国との交流が盛んになると唐菓子が移入し、中世には西欧から南蛮菓子が、そして和菓子が生み出された。
明治維新を迎えると、洋菓子という新たな菓子文化が堰を切ったように流れ込んできた。当時の菓子職人たちは、慣れぬ外国語やはじめて見る製法に戸惑いながら、ときには換骨奪胎しつつ、洋菓子をレパートリーへと加えていった。その流れは現代も続き、さまざまなお菓子が店頭をにぎわせている。
そうした明治から現代に至るお菓子の通史を、書籍『日本人の愛したお菓子たち 明治から現代へ』(講談社)にまとめたのが、吉田菊次郎さんだ。
吉田さんは、開業50周年を迎えた洋菓子店「ブールミッシュ」の創業者。製菓業界の要職を兼ねるなど、この世界の発展に尽力し、昨年「黄綬褒章」を受章している。長く製菓界の第一線を走り抜けてきただけに、本書ではお菓子にまつわる興味深いエピソードが多く、惹きこまれる。その一部をちょっとだけ紹介しよう。
高額であった日本初のアイスクリーム
開国当初の日本の菓子職人にとって洋菓子は、聞くのも見るのも初めてづくし。なんとか製造販売にこぎつけるまで、幾多の試行錯誤が伴った。
吉田さんが、一例として最初に取り上げるのがアイスクリーム。日本で初めてこれを作ったのは、町田房蔵という人物だという。彼は幕臣の家に生まれ、幕末期に渡米。そこで、「あいすくりん」の製法を学んだ。
維新後、横浜でアイスクリームの製造販売を試みるが、製造原価が高すぎたのか、一人分が現在の貨幣価値で約8千円もする代物であった。当初はまったく売れなかったが、伊勢神宮の遷宮祭が行われると、人々のお祭り気分が手伝って、売れに売れたとか。町田はしかし、この事業にはこだわらず造船業の世界へと身を投じる。
「国民食」とまで言われた「森永ミルクキャラメル」
他方、西洋伝来の菓子で大事業へと発展させたのは森永太一郎だ。彼も米国で菓子製造の腕を磨き、帰国後はキャンディーなどを作って既存の店への卸売りを始める。
最初は相手にもされなかったが、国内では高価であったバナナ・マシュマロを作って安く売り出したのが評判を呼び、商売は軌道に乗った。このお菓子は、米国ではエンジェルフードと呼ばれていたことから、これにあやかって森永の会社は、のちにエンジェルを商標に採り入れる。
森永はその後も数々のお菓子を世に送り出すが、「伝説の大ヒット」となったのが、大正2年に発売した「森永ミルクキャラメル」だ。これは「国民食」とまで言われ、人気にあやかって模倣品が続出したという。吉田さんは、「これに匹敵するものは見当たらず、今後においてもこれを凌駕するようなものは、まず出ない」と記している。今でもおなじみのこのお菓子は、実は洋菓子史上まれにみるエポックメーキングな出来事であったのだ。
戦後の物不足をバネに開発した「ミルキー」
維新以来、百花繚乱の洋菓子界に太平洋戦争という暗雲がたちこめる。物資が不足し、贅沢は敵というムードが高まるなか、お菓子の材料はことごとく統制下に置かれた。「シュークリーム、カスタードクリーム禁止令」という、特定のお菓子を狙い撃ちした法令も出されたが、日持ちしない嗜好品は、国体の安全を脅かすからという理屈であった。
終戦後しばらくも食糧管理制度下におかれ、苦しい日々は続く。そんななか、知恵と工夫で困難に挑んだのが、明治末期に創業した不二家の銀座店だ。進駐軍からもたらされた余剰の脱脂粉乳と統制解除された水飴を材料に「ミルキー」を開発する。これは、甘味に飢えていた日本人への慰めとなり大いにヒットした。
不二家は、同じころ国産初のソフトクリームを発売し、日本中にソフトクリームブームを巻き起こした。吉田さんによれば、ソフトクリームブームは3回あったそうで、第2次のブームは1970年。大阪万博があった年で、万博会場には「200台ものソフトクリームフリーザーが設置され」、これを機に遊園地などでソフトクリーム売り場ができていった。第3次のブームは、1996年からコンビニで本格的な取り扱いを始めた頃になるという。
夏の定番贈答品の流れを決定づけた缶入り水羊羹
戦後の菓子文化の変遷をリアルタイムで見てきた吉田さんだが、氏をして「すごい」と言わしめているお菓子がいくつかある。
その1つが缶入りの水羊羹。榮太樓總本鋪が、1962年にテスト販売を始め、1968年に本格的に発売に踏み切ったロングセラーだ。吉田さんは、次のように評している。
日持ちのしない水分たっぷりのこんなお菓子を、遠方にも送れる贈答用に仕立てようなどと考えること自体、並外れている。それを物にしてしまった榮太樓さんは“すごい”の一語に尽きる。同じお菓子屋として只ただ頭が下がる。(本書165pより)
この缶詰め水羊羹は、最初は販売店への卸売りで苦戦したようだが、間もなく「空前の大ヒット」商品へと化ける。すると今度は、洋菓子界が、同じ形式のゼリーやプリンを開発した。それらも世間に受け入れられ、やがてこうしたお菓子が、夏の贈答品の主役に躍り出ることになる。
吉田さんは、缶詰め水羊羹のほかにも、「デニッシュ・ペストリー」「プッチンプリン」「チョコモナカ」などを賛嘆し、「日本という国のすごさを認識」している。なるほど、お菓子の世界は、開発者の苦心のアイデアとひたむきな情熱が昇華した一大文化なのだ。それを近所の店で手軽に賞味できるわれわれは、幸福というよりない。
【今日の教養を高める1冊】
『日本人の愛したお菓子たち 明治から現代へ』
文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。