信長(演・染谷将太)から、丹波攻略の新たなミッションが命じられた光秀(演・長谷川博己) 。

大河ドラマ『麒麟がくる』後半戦に描かれるであろう光秀(演・長谷川博己)、秀吉(演・佐々木蔵之介)の織田家中内での出世争いについて、歴史書籍編集プロダクション三猿舎代表の安田清人氏(元『歴史読本』編集者)がリポートする。

* * *

織田信長は、家臣団の「人材登用」にあたり、出自や門地などにこだわらず、実力主義であったことで知られている。もちろん、累代の家臣であっても、柴田勝家や丹羽長秀のように「使える」人物は重く用いている。しかし、彼らと肩を並べるほどにまで出世した家臣に目を向けると、出自の明らかではない、つまりおそらくは低い身分であったろうと思われる人物の名が挙がってくる。

本能寺の変の直前には、関東・東北方面の外交交渉権をもつ「東国警固」という役割を担ったとされる滝川一益は、近江(滋賀県)甲賀郡の出身の土豪・国衆の出身だ。『甲賀市史』に「故郷を飛び出して信長に仕え出世を遂げた武将だ」と紹介されている。

摂津(大阪府)池田城主・池田氏の一家臣に過ぎなかった荒木村重は、池田家から三好家へと乗り換えたのち、さらに信長に鞍替えした人物。わずか2年ほどで摂津国一国を平定し、その支配を信長に任されるにいたった。

当時、信長の家臣で一国の支配を任されていたのは、越前(福井県)の柴田勝家と大和(奈良県)の塙直政だけだったのだから、トンデモないスピード出世だ。その後、村重は信長に反旗を翻し逃亡。信長の死後は茶人として余生を送ることになる。

さて、こうした信長家臣団にあって、極めつけの出世頭が明智光秀と羽柴秀吉であることに異論はないだろう。両者の出世争いは、小説やドラマなどでもおなじみだ。

しかし、この両者の争いは、「出世レース」などという生易しいものではなく、互いに大派閥を率いての抗争であったと見るのが、本能寺の変研究に20年以上の月日を費やしてきた藤田達生さん(三重大学教授)だ。

その研究の集大成である『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』(小学館)によれば、光秀・秀吉の両者は、ともに織田家中で大出世を果たすと同時に、それぞれの「派閥」を率いていた。そしてその派閥は利害相反関係にあったため鋭く対立し、その対立こそが、両雄の主君である信長の暗殺という悲劇を招いたという。

同書では、地域ブロックの平定を任された織田家の軍団長クラスの重臣を「宿老」と呼んでいる。光秀も秀吉も、もちろんこの宿老のひとりだ。光秀は四国地域担当の宿老。対する秀吉は中国地域担当の宿老と位置付けられる。それぞれが派閥を率い、その対立と抗争の行き着いた先が、本能寺の変だと結論づけている。

宿老が率いる派閥とは、どのようなものか。藤田さんは、派閥を構成する5つの要素を掲げている。

(1)婿(養子)や嫁として迎えた天下人(信長)の子供や一門。
(2) 子供の嫁ぎ先・養子先をはじめとする親類大名。
(3) 名字を授けて一族関係を形成する重臣。
(4) 政権から与力として付けられた大名。
(5) 政権への取次関係にある外様大名。

こうした「要素」を少しでも多く手中に収めた部将が、織田家の宿老として大をなしたということになる。

織田家中最大規模に発展した光秀派閥

光秀は、娘のひとりを信長の甥にあたる津田信澄(信勝の子)に嫁がせていた。これが(1)にあたる。

そして、荒木村重の息子・村次にも嫁がせていて、これが(2)に相当する。もちろん、娘の玉子(ガラシャ)を嫁がせた細川忠興も (2) 。重臣の明智秀満・明智光忠・藤田行政・斎藤利三・三沢秀次が(3)となろう。

光秀には天正8年(1580)段階で丹後(京都府)の細川氏と一色氏が(4)の与力として預けられ、その後に大和の筒井順慶も与力とされている。

そして(5)に該当するのが、土佐(高知県)の長宗我部氏ということになる。

天正3年(1575)から天正7年にかけて丹波平定を成し遂げた光秀は、その途中、畿内の各地での合戦にも動員され、転戦を繰り返した。そして天正6年には四国の戦国大名・長宗我部氏と織田政権とを結ぶ取次に任じられた。

同年、光秀は自らの甥で、織田家中の同僚である稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三を引き抜いて、明智家中の重臣とした。当然、稲葉家との間にトラブルが生じ、信長からも厳しい処断を下されそうになるが、信長近習(側近)の猪子兵介の取り成しで危地を脱している。

光秀が利三をスカウトしたのは、もちろん利三が優れた武将だったからだが、もう一つ理由があった。利三の兄頼辰は、土佐に下った幕府奉公衆の石谷光政の養子となっていた。光政の娘婿は、長宗我部元親だ。また、利三の妹の夫・蜷川親長は幕府政所執事だったが、当時はやはり土佐に下り、長宗我部元親のブレインとなっていたのだ。

つまり、斎藤利三を家中に引き込んだのは、長宗我部家とのパイプを太くし、四国取次としての地位を確かなものとするためだったのだ。その結果、光秀は織田家の宿老として頂点に上り詰めることができたというのが、藤田さんの見立てだ。

光秀の派閥は、すでにみた(1)~(5)の要素を完備し、その領地・人脈などあらゆる点で織田家中の最大規模となっていた。つまり光秀は、秀吉よりもずっと早くに、筆頭宿老というべき地位に至っていたのだ。

【秀吉派閥は、光秀派閥の敵・三好氏と組んだ。次ページに続きます】

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