文/濱田浩一郎

安土饗応-腐った魚の匂いに激怒する信長-
江戸時代初期に成立した豊臣秀吉の伝記に『川角太閤記』(著者は川角三郎右衛門)があります。同書は一次史料ではありませんので、信頼性は高くはないものの、本能寺の変や織田信長・明智光秀にまつわる興味深い逸話が載せられているのは事実です。一体、どのようなことが記述されているのでしょうか。
同書は先ず、天正10年(1582)の記述から始まります。天正10年、そう、本能寺の変が起こった年です。同年、織田信長は甲斐の武田勝頼(信玄の子)を追討するため、近江国の安土城を出立。先陣は信長の嫡男で後継者の織田信忠でした。信忠は岐阜より出陣。一方、信長の同盟者である徳川家康は、駿河国より武田領に攻め込みます。各所から攻められ、進退極まった勝頼は甲府の「家城」を退きますが、同国の田野の「山林」にて討ち取られてしまいます。武田家はこれにて滅亡します。信長は戦後処理を行い、家康に駿河国を与えました。
そして同年4月上旬には安土に帰還します。その後、家康は駿河国拝領の御礼のため、穴山梅雪(武田家の親族であったが、織田に内通していた)を同道し、安土に向かいます。安土での家康の「御宿」は明智日向守――つまり織田重臣・明智光秀の宿所となる予定でした。
信長は光秀がどのように家康をもてなすのか気になったのでしょう。確認のため光秀の宿所に向かいます。光秀は魚を家康に振る舞おうと考えていました。信長が確認しに行った時、その魚の臭いが鼻に入ってきます。当時は夏、そして生魚であったので、魚が傷んでいたのです。信長が門を入ったと同時にその「悪しき匂ひ」が風に漂い、押し寄せてきたのでした。この有様に信長が殊の外、立腹したと言います。腐った魚を家康に提供するのかと思ったのでしょう。「料理の間」に現れた信長は「この様子では家康の馳走(饗応)はできない」と怒ったとのこと。そして家康の宿所を堀久太郎に変更するのです。これにより光秀は「面目を失った」と同書にはあります。
面目を失くした光秀がとった行動とは?
面目を失くした光秀は、木具や魚の台、その他、用意していた魚を悉く堀に投げ込んだということです(光秀方の憤懣が伝わってきます)。その魚の悪しき臭いが安土中に充満したということです。ちなみに信長の家臣・太田牛一が著した『信長公記』にはこのような逸話は記されていません。家康の接待を信長から命じられた光秀は、京都や堺で「珍物」を取り揃えて、素晴らしいもてなしをしたと『信長公記』にはあります。江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の『信長記』にも『川角太閤記』のような信長と光秀のトラブルは記されていません。光秀は家康を歓待したとの記述はありますが、魚にまつわるトラブルは記されていないのです。
信長の事蹟を編年的に叙述した戦記『織田軍記』(著者は遠山信春。江戸前期の成立で史料的価値は低い)にも、光秀は京都や堺で「珍物・名器」を揃えて家康をもてなそうとしたとあります。しかし「一説」として『織田軍記』は光秀が「深く鬱憤」(深く憤慨)したという出来事を載せています。それは信長が光秀に毛利方と対峙する羽柴秀吉支援のため、西国への出陣を命じたことです。「各々、早々に本国に帰り、用意して出陣せよ」との信長の命令。これにより、光秀は家康饗応の用意を止めざるを得ませんでした。これを光秀は深く怒ったというのです。怒った光秀方は家康をもてなすために用意していた器物を皆、湖水に投げ入れて捨てたという説を『織田軍記』は載せています。『川角太閤記』では魚などを堀に投げ入れる。『織田軍記』では器物を湖水に投棄する。話の内容に違いもありますが、共通点もあります。しかし、どちらの話にしても、怒ったからといって、魚や器物を全て投げ込むようなことは光秀がするとは思えず、この逸話は創作と考えられています。光秀の不手際により信長が怒り、饗応役を解任され、光秀が叛意を抱くというのはドラマや小説としては面白いのかもしれませんが、事実ではないでしょう。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











