文・写真/中川豊
第2回 ローマ旧市街東側〜ヴェネツィア広場を中心に歩く ミケランジェロが愛した2人との邂逅

いつも大渋滞しているヴェネツィア広場。近くにはフォロ・ロマーノ、コロッセオなど名所は多い所だが、今日もミケランジェロ所縁の場所を歩く。
【第1回はこちら】
ミケランジェロが暮らしていたマチェル・デ・コルビは庶民的な街
政治的対立からメディチ家に嫌気がさし、1534年からローマに移住したミケランジェロは幾度か引っ越し、上の写真の右辺りに住んでいた。マチェル・デ・コルビと呼ばれたこの地区は屠殺場、肉屋の多い庶民的な下町で彼の家もアトリエと寝室、馬小屋と質素な佇まいだった。身の回りに無頓着な彼らしい家で亡くなるまで過ごした。

現在はヴェネツィア広場の北東に面したジェネラリ保険の建物がある。その壁面に「神のごときミケランジェロが住み、亡くなった家があった」との銘板を見る事ができる。
絶世の美青年トマゾ・デイ・カヴァリエーリ
マルチェロ劇場はカエサルの時代に作られ、カヴァリエーリ家の住居だった。
マルチェロ劇場

ローマの名門貴族に生まれたトマゾは「誰もが振り返る」と言われたほどの美青年だった。芸術や文化に深い見識を持っており、ローマの重要な公職を歴任した。
57歳のミケランジェロは20歳前後の彼にローマで出会い一目惚れした。フィレンツェから好きでもないローマに移り住んだのも彼に会うためかも知れない。「あなたの美しさは私の魂を神へと導く」「私は貴方の衣服になりたい。美しい胸を抱きしめる事ができるなら」などと彼を讃美した情熱的な詩を送り続け、寓意的な素描まで贈った。同性愛に風当たりが強かった当時、戸惑っていた彼もミケランジェロの天才性と純粋さ誠実さに心打たれ深く敬愛する様になった。
カンピドーリョ広場

二人はカンピドーリョの丘の再開発を行なった。広場は見事な空間設計で今も人々を感嘆させている。ミケランジェロの死後もコンセルヴァトーリ宮やサン・ピエトロ聖堂に関わり彼の意志を引き継いだ。
1564年ミケランジェロが自宅で息を引き取る際、トマゾは手を握り看取ったとされる。
精神的支えだったヴィットリア・コロンナ夫人
サン・シルベストロ・アル・キリナーレ教会

ミケランジェロ60歳の時に出会ったヴィットリア・コロンナ夫人はローマの名門貴族コロンナ家に生まれた知識人・詩人。宗教改革に揺れたこの時代に、ヴァチカン内部から改革をしようとした知識人グループ・スピリチャル派の中心的人物だった。
システィーナ礼拝堂「最後の審判」に取り掛かっていたミケランジェロは精神的にも肉体的にも苦悩と苦痛の時期だった。腐敗したヴァチカンに失望していた彼にとって17歳年下のコロンナ夫人との出会いは大きな救いとなる。
キリナーレ教会の中庭で芸術や信仰について語らい、共通の価値観を持ち、精神的な絆は深まった。
だが夫人は55歳で亡くなる。臨終にも立ち会った彼は手にキスをしただけだった。後に彼は「人生で唯一の後悔は彼女の頬にキスしなかった事だ」とまで言ったそうだ。
神とまで崇めた夫人の喪失感は彼からしばし芸術創作を離れさせた程だった。新プラトン主義に傾倒していた彼にとって精神的にも創作活動にも、かけがえのない人だった事だろう。
※コロンナ夫人の実家であるコロンナ宮殿は映画「ローマの休日」での謁見シーンの撮影場所だ。
ミケランジェロの最初の埋葬場所 サンティ・アポストリ教会
ほとんど訪れる人もないミケランジェロの「空の墓」とも呼ばれている記念碑は教会横の回廊にひっそりとある。碑は弟子デューカの手によって作られた。訪れた際も公開されていなかったが、教会のボランティアの夫人の導きで中に入る事ができた。


ミケランジェロは1564年2月18日ローマの自宅でトマゾや弟子たちに見守られながら息を引き取る。そして自宅近くのこのサンティ・アポストリ教会に安置された。ピウス4世はローマに墓を作ろうとしたが、ミケランジェロが「フィレンツェに埋葬して欲しい」との希望だったため、甥のリオナルドが秘密裏に遺体を荷物に見せかけてフィレンツェに運び出した。教皇は寛大にもそれを許した。フィレンツェで壮大な葬儀が行われ、彼はサンタ・クローチェ教会に埋葬され、ガリレオ、マキャベリ達と静かに眠っている。

なぜここに? 因縁のモーセ像 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会

因縁のユリウス2世の霊廟はミケランジェロを最も悩ませた仕事ではなかっただろうか。教皇の命により1505年彼は40体余りの彫刻からなる巨大な立体建築を構想した。教皇は大乗り気で自分の霊廟を旧サン・ピエトロ大聖堂に作る事を望み、建築家ブラマンテに建て替えを命じる程だった。しかし1508年に命じられたシスティーナ礼拝堂天井画制作でこの構想は頓挫した。しかも教皇の死後、遺族と訴訟沙汰となり、計画は縮小されここにユリウス2世の霊廟は作られた。なお教皇の遺体はサン・ピエトロ大聖堂に安置されている。
次々に変わる教皇達の権力闘争に翻弄される苦悩の中、完成時ミケランジェロは70歳で実に40年の歳月を費やした。
古代ローマの遺跡?
巨大浴場跡に作られたサンタ・マリア・デランジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂


テルミニ駅近くのリパブリカ広場に面した古代ローマ遺跡は実はキリスト教会だ。
1561年ピウス4世の命は古代浴場跡をキリスト教会に改造する事だった。ミケランジェロは4世紀に作られたディオクレティアヌス大浴場の外観をそのままに、内部はその壮大な空間を活かして壮麗な教会を企画し着手したが、完成を見る事なく亡くなった。
その後大きな改修が行われたが、古代遺跡の遺構を大胆に取り入れた彼の意図はよく見て取れる。
安藤忠雄氏の建築、旧税関を改築した「プンタ・デラ・ドガーナ」(ヴェネツィア)旧穀物取引所を改築した「ブルス・ドゥ・コメルス」(パリ)などに「外観はそのまま内部をリノベ」というミケランジェロの考えがインスパイアされている様に思える。
ミケランジェロ最晩年の建築 ポルタ・ピア

1561年後期にピウス4世の命で手掛けたこの門はミケランジェロの最後の仕事となった。ローマ北東の玄関口として設計された。マルティーリ聖堂と同様に死後弟子によって完成した。
1870年イタリア王国軍が教皇領として残っていたローマに進軍する際、この門の脇の城壁を突破しイタリア統一を成し遂げた。
今日の一皿…散歩の後に。明日のために!
「Giggettoのユダヤ風アーティチョーク」

ヴェネツィア広場近くの旧ゲットーにあるGiggetto は1923年創業の老舗ローマ・ユダヤ料理店だ。名物料理はアーティチョークの素揚げ。ペコリーノ種の白ワインと相性が良い。パリパリとした食感はビールにも! この周辺には沢山のユダヤ料理店が軒を連ねているがここが一番。
ローマはアーティチョーク好きにはたまらない街だ。ローマ風茹でアーティチョークなど色々な料理に使われる。

ミケランジェロの導きでのローマ散歩はいかがだっただろうか。石畳の多いローマは是非履き慣れたスニーカーで歩いて欲しい。
第3回はナポリ・カポディモンテ美術館「最後の審判」複製画を見、ナポリを歩く。
※データは2026年6月現在
【参考文献】
「システィーナのミケランジェロ」青木昭 (小学館)
「世界美術大全集」第12巻 小学館刊
「ルネサンス画人伝」ヴァザーリ (白水社)
「ミケランジェロの暗号」ベンジャミン・ブレック ロイ・ドリナー (早川書房)
文・写真/中川豊
1949年生まれ。旅人、メディア・プロデューサー。1971年5月から約9か月をかけキャンピングカー(三菱J-30を改造)で走破。経路はインド・コルカタから中近東、北アフリカを経てジブラルタル海峡を渡り、最終地はポルトガル・リスボン。以来旅を続け、訪れた国は80を超える。











