菊池 武夫(ファッションデザイナー、87歳)
─DCブランドブームの“火付け役”としてファッション業界を牽引─
「ベストを作ったつもりでも不満が残る。100%満足しきれないうちは続けたい」

──今も多数の新作を発表しています。
「注文服を作り始めてから60年以上、タケオキクチのブランドを立ち上げてから40年以上が経ちました。“引退してゆっくりしたら?”と言う人もいるけれど、単純に“デザインをやりたい”という気持ちがめちゃくちゃ強いんです。アイデアは湧いてくるし、それをカタチにしていくステップがとても面白い。これが面白くなくなった時が潮時でしょう」
──アイデアの源泉は?
「街歩きが好きで、妻と一緒にぶらぶら散歩することで、目にする情報、耳から入る情報が自分の創作意欲を刺激します。流行りのものは自分の目で確かめる。例えば、令和4年に『アイムドーナツ』(I’m donut?)という新食感を売りにしたドーナツ店ができた時も並んで買いました。何かが流行る理由を単純に“知りたい”という気持ちが強いんです。人の営みや社会の動きもデザインに通じますから、そういう外部の刺激が、僕の中でさまざまな発想に生きていると思います」
──幼い頃からファッションに興味が?
「戦中の生まれですから、そんな余裕はありません。しかも5歳の頃、木登りの途中で木から落ちたのをきっかけに、肋膜に膿が溜まってしまった。手術しなければ助からないという危険な状態だったそうです。昭和19年のことです」
──戦争も末期、戦火の激しい頃です。
「病院ではなく、千代田区内にあった自宅で手術しました。父が奔走して、大学病院の外科部長に頼み込んだそうです。この時、抗生物質ペニシリンが使われたのですが、これが日本で2番目の使用例だったと聞きました。手術は成功したのですが、医者は密かに“あと2年、生きられるかどうか”と両親に告げていたそうです。僕は手術から1年近く、ほぼ寝たきりでした」
──空襲の時はどうしたのですか。
「焼夷弾はひっきりなしに落ちてきました。12人兄弟の6番目なのですが、空襲のたび、寝たきりの僕を布団のまま家族総出で、庭の奥に掘った防空壕に運び込んでくれました。終戦後は奇跡的に病も癒え、家の近くにあったカトリック系の私立小学校に通い始めます。親から“あまり体を動かすな”と厳命されました。幼い時の“臨死体験”が大きかったのか、どこか厭世的でした。小学校の高学年になると、学校をサボることが増え、庭の倉庫の屋根裏に隠れて、印象派の画集を食い入るように見ていました」

──絵画に興味があった。
「親は、絵描きになるのもいいと思っていたようですが、僕は伝記を読んで画家の末路が寂しいことを知っていた。ユトリロの晩年はアルコール依存症だし、ゴッホもモディリアーニも非業の死を遂げていますよね。画家になんてなるもんじゃない、と。それでも美を創造することへの興味があったんでしょう。高校を出たあとは文化学院の美術科に進みました。ここで生涯の友と出会い、ファッションの世界に足を踏み入れることになります」
「自分らしくある、自分の着たい服を作りたい、ということが根本」
──高校卒業後はファッション一筋?
「そういうわけでもないんです。洋服のデザインをするなんて全然考えていなかった。10代の頃はジャズ喫茶に通い詰め、そこで知り合った写真家の立木義浩さんに頼まれて、雑誌のモデルもしました。文化学院の先生から“あなた、顔が甘いから俳優になりなさいよ”と言われ、松竹ニューフェイスの試験を受けたこともあります。カメラテストを受けて、台詞もいくつか喋りました。そしたら合格通知が来て……」
──演技の道に進んだ過去も?
「母親は喜びましたが、僕はとてもじゃないけど無理だと思った。演じることに違和感を覚えてしまって、結局、一度も映画会社には行きませんでした。きっと“違う自分”になることが嫌だったのでしょう。自分は自分のままでいたかった。ファッションもそうです。自分らしくありたい、自分の着たい服を作りたい、ということが、ずっと根本にありますから」


──それでファッションの道へ。
「ええ。文化学院の4年間を通じてファッションにのめり込んでいった僕は、卒業後、原のぶ子アカデミー洋裁(現・青山ファッションカレッジ)に進学し、立体裁断の技術を学びます。それからルリ・落合、マダムミキ……と婦人服のオートクチュールのアトリエを転々としました。個人のアトリエをつくり、約9年間オーダーメイドや雑誌、広告から依頼された服作りをするのみでした。仕事は任されるものの、自分の納得いく服作りができずに自分で作りたい服を作れなかった。自分が本当にやりたいことをやるなら、自分で会社を立ち上げるしかない。そう思い、昭和45年、仲間とBIGIを設立しました。31歳の時です」
──今も人気のあるブランドです。
「それまでの市場は、オーダーメイドが主流でした。BIGIはここに紳士服のプレタポルテを持ち込みました。後のメンズビギです」
──いよいよ紳士服に乗り出したのですね。
「ちょうどその頃、ディスコで知り合ったショーケン(萩原健一)から“ドラマの衣装を担当してくれないか”と頼まれました。大ヒットした『傷だらけの天使』の衣装でした。販売するために作っていた製品を提供したのですが、これを機にブランドの認知度が一気に広がり、彼が着たスーツが1週間に100着売れることもありました。また、香港のバイヤーを通じて、あのブルース・リーも私服として、私が作った服を購入してくれていたそうで、実際、映画の中でも着ています」
──順風満帆です。
「メンズビギ設立からわずか2年で、勢いに乗ってフランス・パリにも出店しました。紳士服としての出店は日本初、昭和53年のことです。いま振り返れば早すぎたのかもしれないけど」
──どういうことですか?
「会社が安定する前の海外進出だったから、僕がいない間に会社本体のほうが揺らいでしまった。結局、2年でパリの店を閉め、本体の立て直しのために日本に戻りました。僕が戻って本体の経営が落ち着くと、自然にまたモヤモヤとしてきました。ビジネスとデザインを両立する難しさは痛感したけど、心機一転、また挑戦してみたくなったんです。それで誘いのあったワールドに移籍して、タケオキクチというブランドを立ち上げました」
──リスクのある挑戦です。
「45歳になっていましたから、焦りもありました。でもタケオキクチの売り上げは、時代の波にも乗って予想以上の速さで急拡大していきました。ところが、急速に広がると、そのぶん歪みも大きくなります。6〜7年経った頃、気がつくと購買層の年齢が上がっていた。それと一緒にブランドのエネルギーもしぼんでしまったんです」
「人生を誰かに左右されたくない。されるもんか、と頑張ってきた」
──どう乗り切ったのですか?
「バブル崩壊後の不景気の影響もあり、このままではブランドがだめになってしまうという強い危機感を抱きました。こういう時こそ勝負です。決して守りに入ってはいけない。ショーや広告は散々やってきたので、もっとインパクトのあることはないか。考え抜いた末、ショートムービーに打って出ました。タケオキクチというブランドのスタイルを、一流の監督と一流の役者で映像で表現したいと考えたんです。『恋する惑星』などで評価を高めていた香港のウォン・カーウァイさんに監督をお願いし、主演に抜擢したのが浅野忠信さんでした」
──当時から話題になりました。
「実は、もうひとりの俳優と浅野さんのふたりが最終候補に残り、どちらを主演にするか最後まで悩みました。スタッフのほとんどはもうひとりの俳優を推したのですが、僕は“浅野忠信さんでいきたい”と押し切りました。ショーケンに初めて会った時に感じたような、独特の存在感が彼にはあったからです。彼に賭けたいと思った。
結果、この映画(『wkw/ tk/1996@7’55″hk.net』)は当たり、その影響もあってか、再び10代のお客さんが店にたくさん来てくれるようになりました」
──その後も新ブランドを立ち上げます。
「例えば、40カラッツ&525は、40代~60代の大人の男性に品格あるカジュアルスタイルを提案したくて始めました。僕のデザインの基本は一貫してストリートファッション。当時、遊び心と個性のある大人の男性が着られるストリート系の服が見当たらなかったんです。だったら僕が作ってやろうと。自分も60代になっていたし、そんな服を着てみたかった。昔から変わってませんよね。いま僕が着ているのがそのブランドです」
──徹底的に好きを貫く姿勢です。
「幼い頃に死に直面した時、僕は生きたい、生きていたい、生きているだけで嬉しいと強く思った。だから今、人生をコントロールし、好きなことをしている喜びがある。自分の人生を誰かに左右されたくないんでしょうね。左右されるもんか、と言い聞かせて頑張ってきた面もあります」

──タケオキクチを離れた時期もあった。
「タケオキクチは成熟ブランドになったので後進に任せて、しばらく40カラッツ&525に専念しました。ところが、本人が会社にいるのに、自分の名を冠したブランドに関わっていないとうまくいかないものですね。タケオキクチに元気がなくなっているように見えて、もう一度、息を吹き込まないとまずいなと思った。そこで、73歳の時にタケオキクチに復帰して、すべてのデザインの統括を始めました。先ほど、打ち合わせの現場を見てもらいましたが、若いスタッフとも侃々諤々(かんかんがくがく)とやりあっていたでしょう。年齢に関係なく、いつも真剣に意見を戦わせています」

──この先の目標はありますか。
「この年齢まで一線で活躍してすごいですよね、とも言われますが、まだまだ物足りない。ベストなものを作ったつもりでも、いつも不満が残ります。100%満足しきれないうちは、続けていくつもりです。それとね、会社と妻が許してくれるなら、またパリで勝負したいと思っているんです。ファッションの最前線はパリですから、そこでもうひと暴れしてみたい。勝つ自信はありますよ」
菊池武夫(きくち・たけお)
昭和14年、東京・千代田区生まれ。文化学院美術科、原のぶ子アカデミー洋裁を経て、昭和39年から注文服の制作を始める。昭和45年に友人らと「BIGI」を設立。昭和59年、ワールドに移籍し男性向けファッションブランド「タケオキクチ」を立ち上げる。平成16年に40代~60代の男性向けブランド「40CARATS&525」に専念、一時タケオキクチを離れるも、平成24年に復帰した。
取材・文/角山祥道 撮影/三浦孝明







