米村 でんじろう(サイエンスプロデューサー、71歳)
─科学の楽しさを伝えるために開発、実演してきた実験は1000種類以上─
「いつのまにか世界に影響を与えたんだとネット動画を見ていて気づきました」

──「でんじろう先生」として30年です。
「都立高校の理科教師を辞めて、サイエンスプロデューサーとして独立したのが、41歳になったばかりのこと。いま71歳ですから、そうですね、ちょうど30年です。でもこうして『米村でんじろう先生』というキャラクターとして、テレビに顔を出すようになるとは、子どもの頃のことを考えたら想像がつきません。内気で人見知りでしたから」
──内気? それこそ想像がつきません。
「家にお客さんが来ると、隅っこに隠れるような引っ込み思案です。集団の中で何かをするのも得意じゃないので、学校生活も苦手。学校が終わるとすぐ家に帰って、ひとりで好き勝手に過ごすような子どもでした。
自然環境には恵まれていました。房総丘陵(千葉県)の真ん中にある村で、小さな丘がずっと続いていて、その合間に畑や田んぼがある。日本の里山のイメージそのままの場所で生まれ育ちました。4人兄弟の末っ子です。川に行っては魚を捕まえ、野に分け入っては山菜を摘みました。それが遊びでした。お米は竈で薪を燃やし、山から引いた水を甕に溜めて使っていました」
──そんな少年がなぜ理科の世界に?
「時代も大きかったのでしょう。昭和32年にソ連(現ロシア)が、世界初の人工衛星、スプートニク1号を打ち上げます。科学時代の幕開けです。アメリカは『スプートニク・ショック』に見舞われ、科学教育に力を入れ始めます。日本にもその波がやってきたのと高度成長があいまって、学校現場でも理科の実験器具が充実していきます。村にはテレビを買う人が現れ、お茶の水博士が作った鉄腕アトムがブラウン管の中を飛んでいた。科学が未来を切り開き生活を豊かにしていく、ということを誰もが信じることができた。自分もあんなロボットを作る博士になりたいと漠然と思っていました」
──実際、何か作ったのですか?
「エナメル線で電磁石を自作しました。レンズが手に入ったときは、ボール紙で望遠鏡を作ったことも。科学工作、遊びの延長ですね」
──理科好きの少年だったのですね。
「それが、そうでもないのです。実験や工作は大好きだったのですが、勉強となると途端に興味をなくしました。中学校に上がるとそれが顕著になって、特に予習・復習を前提とした英語が大の苦手に。理科の授業中に、つまらないからと教科書の写真やイラストを眺めていたら、あとで理科の教師に呼び出されて“生意気だ、なんで授業聞かないんだ”とビンタされたこともあります。うるさくする生徒ではありませんでしたが、集中していないことが丸わかりなので、随分嫌われました。学校? ずっと苦手でした」
──学校が好きな子どもではなかった。
「それでも時代の波に乗って、近くの普通高に進みました。進学率が高まっていた時期だったんです。相変わらず勉強は得意ではありませんでしたが、かといって就職も怖い。周りにつられるように、私も大学を目指すのですが、何しろ勉強の習慣もなければ、仕方もわからない。さらに高校3年時に、工場勤めの父が労災で亡くなり、母子家庭になってしまった。国公立一本で受験に臨みますが不合格。2年めも失敗。それで“お前も働け”と言われ、京葉工業地帯の工場に通いました。いわゆる日雇い労働です。朝、迎えに来たバスに揺られ、工場に着くと一日単純作業。近所のおじさんに交じって働いたのですが、これがしんどい。数か月で音を上げ、“大学に行かねば”と決意を新たにしましたが、かといってうまくいかない」
──辛い浪人生活です。
「なんだろう、望遠鏡を逆さに覗いているような心持ちでした。世の中が遠く、小さくなっていくんです。友人にも会いたくない。未来が見えない時期でした。三浪の末、ようやく国立のひとつ、東京学芸大学に入ることができたのですが、学芸大学は師範学校をルーツに持つ、教員養成大学です。ここの理科B類(物理)で学び始めます」

──いよいよ、でんじろう先生誕生ですね。
「ところが、そうじゃないんです。相変わらず勉強もしないし、ついてもいけないから、単位をボロボロ落としてしまうんです」
──それはピンチです。
「学芸大学は、4年生になると卒業レポートをまとめます。研究室に所属して、指導を仰ぐのですが、自分で“研究室に入れてください”と頼みに行く必要があった。ところが、“そんなに単位を落としてるんじゃ、卒業は無理だよ”と断られ続けて困りました」
──試練が続きます。
「でも4年時に受けた授業で、手応えを掴むんです。ふたりしか受講生がいないという不人気のゼミだったのですが、小人数なので授業はほぼマンツーマン。定年間近の老教授が、ゆっくりテキストを進めていきます。1ページすら終わらない日もあったのですが、スローペースで教えてもらったお陰で、理解が進みました。しかも先生なのによく間違える。それまでは、自分はダメだと投げやりになっていたのですが、大学教授でも間違うし知らないことがあることに気づいて、楽になったんですね。ようやく、学ぶことの楽しさに気づき始めたのかもしれません」
「教えることで、“自分が何をわかっていないか”が見えてくる」
──大学4年となれば、就職活動です。
「同期のほとんどが教員採用試験を受けます。当時は、一次試験対策が出回っていて、暗記すれば通った。私も二次面接に進んだのですが、同じ理科B類の友人が勉強せずに挑んで落ちた。そしたらそいつが、“一緒に院に行かないか”と誘ってきたんです」
──大学院ですか?
「当時の学芸大学の大学院は修士課程しかなく、その先の進路がありませんでした。だからあまり人気がなかったんですね。まだ社会に出たくなかった私は、就職するよりはましか、と院に進むことにしたんです。修士課程で2年間学んで、他大の博士課程を受けるのですが、案の定、落ちまして……」
──またもやピンチです。
「大学に研究生という仕組みがありましてね。多少のお金を払うと、大学に籍が置け、図書館も利用させてくれる。この制度を利用して、もう3年、大学にいました。結局、勉強嫌いだった私が、大学に9年間いたことになります。そしてこの研究生のときに、自由学園から講師の話をいただいたんです」
──いよいよ先生です。
「教えるようになって気づいたのですが、教える側は優秀である必要がない。むしろ、“わからない生徒”の気持ちが理解できたほうがいい。そして人に教えることで、“自分が何をわかっていないか”ということも見えてくる。教えている側が学んでるんですね。
自由学園はその名の通り、何をやっても良かった。それで、大学図書館で文献をあさっては、授業に様々な実験を取り入れていきました。座学より、実験のほうが楽しいですから。実験や体験が好きだった子どもの頃の原点に、戻ったのかもしれません。このときやったひとつが、ソーラーバルーンです。市販の黒いビニール袋をテープで繋いで大きな風船を作ります。その中に空気を入れ、太陽光で温めると、気球のように浮くんです」
──でんじろう先生の誕生ですね。
「30歳から、都立高校の理科教師として働き始めました。最初の勤務先は、勉強が好きじゃない子たちが集まった普通高で、授業を聞いてくれない。興味を引くためにここでも実験三昧。面白実験で刺激を与え続けたんです。校外に植物観察に行って、見つけた野草やドングリを食べたこともありましたね。しかし先生の業務はそれだけじゃありません。事務作業や書類作業が苦手で、それも辛い。そのうち、自分の中の5年後、10年後の教師像が見えなくなってしまったんです」
「無駄や失敗から、社会がひっくり返るような発見や発明が生まれる」

──教師の仕事に疑問を持ってしまった。
「それで学校を移ったりしたのですが、それでも霧が晴れない。そんなときに、NHKの教育番組の枠の科学番組を手伝う機会があった。最初はボランティアです。実験収録の補助や企画に関わるうちに、教師以外でも、いままでやってきたことを生かせるんじゃないか、と思い始めたんですね。1年ぐらい悩んだ挙げ句、校長に辞職を申し出たのですが“あ、そうですか”だけ。拍子抜けでした」
──収入のあてはあったのですか?
「確たるあてはありません。たまたま、手伝っていた制作プロダクションが、100を超える企画をNHKに持ち込んだのですが、その中に、若者の科学離れと私の活動を重ねるドキュメンタリー企画があったんですね。それが通ってしまった。高校にもカメラが入るなど、結構大がかりな撮影でした。それが『おれは日本のガリレオだ!?』です」
──随分、話題になりました。
「これがきっかけで、講演やサイエンスショーの依頼が舞い込み始め、ついにはバラエティ番組(『それ行けKinKi大放送』日本テレビ系)に呼ばれ、KinKi Kids(現DOMOTO)との科学実験コーナーにレギュラー出演することになりました。人前が苦手だと言ってられなくなったんです」
──でんじろう先生人気が高まります。
「以来、いろんな番組や雑誌に出るようになりましたが、そこで披露する実験は、全部こちらで考案します。どう面白く見せるか、どう驚かせるか。プラス、どう科学に興味を持ってもらうか。毎日アイデアを練り、手と頭を動かし、試行錯誤を繰り返します。それが30年間、絶え間なく続いています。考案した実験は1000を超えるでしょうか」




──失敗した実験はありますか。
「失敗ばかりですし、無駄も多い。ですが、科学とは効率追求ではなく、試行錯誤そのものです。でもあるとき、無駄や失敗から、社会がひっくり返るような発見や発明が生まれる。それには科学の裾野を広げること──子どもの頃から科学に親しんでもらうことが大事です。実験教室などで全国を回るのは、科学の楽しさ……私は科楽と呼んでいるのですが、それを体験してもらいたいから。それで、情報発信にも注力しているのですが、インターネットは後発だと難しいですね。動画サイトでは科学実験のネタで溢れていますが、私が開発した実験が随分、使われています。先日観た動画では、インド人がやってました。いつの間にか、世界に影響を与えていた。嬉しい反面、“それは私が考案したのに……”と悔しく思うこともあります」
──「これから」のことを教えてください。
「私の名前は、漢字で傳治郎と書きます。村で人望のあったおじいさんの名をいただきました。親が、あやかりたかったのでしょう。私の中でもいま、“継承”が大きな目標です。2代目でんじろうや3代目でんじろうが誕生したら面白いと思いませんか? 名を継承した弟子たちが全国を飛び回り、科学実験を通して“科楽の種”をあちこちに撒いていく。もちろん私も、まだまだ走り続けますよ」

米村でんじろう(よねむら・でんじろう)
昭和30年、千葉県生まれ。本名・米村傳治郎。東京学芸大学大学院理科教育専攻科修了。自由学園講師、都立高校教諭を経て、平成8年サイエンスプロデューサーとして独立。その前後の様子がNHKで特集され反響を呼ぶ(『おれは日本のガリレオだ⁉』)。科学実験の企画・開発、サイエンスショー、研修会の企画・監修・出演など幅広く活躍する。科学技術庁長官賞(平成8年、10年)受賞。
取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工











