
はじめに-小堀正次とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する小堀正次(こぼり・まさつぐ、演:萩原護)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。茶道の遠州流を開き、作庭や建築でも名を残した小堀遠州(こぼり・えんしゅう)の父としても知られています。
正次自身も、激動の時代を生き抜いた人物でした。初め近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政(演:中島歩)に仕え、浅井氏滅亡後は豊臣秀長(演:仲野太賀)の家臣に。さらに関ヶ原の戦いでは徳川家康(演:松下洸平)に従います。
浅井、豊臣、徳川と、天下の主導権が移り変わる中で主家を変え、そのたびに新たな役割を担った小堀正次の生涯をたどります。
『豊臣兄弟!』では、秀長が治める紀伊(現在の和歌山県全域と三重県南部)や大和(現在の奈良県)で手腕を発揮する行政官として描かれます。
小堀正次が生きた時代
小堀正次が生きた16世紀半ばから17世紀初頭は、各地の戦国大名が争った時代から、全国を統一する政権が成立していく転換期でした。
近江では浅井氏などの地域勢力が領国を支配していましたが、織田信長の勢力拡大によって戦国大名の勢力図は大きく変化します。信長の死後は豊臣秀吉が天下統一を進め、大名たちは豊臣政権のもとに組み込まれていきました。
さらに慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て徳川家康が主導権を握り、やがて江戸幕府が成立します。
正次が生きたのは戦の勝敗だけでなく、権力者のもとでどのような役割を担うかによって、その後の運命が大きく左右された時代だったといえるでしょう。
小堀正次の生涯と主な出来事
小堀正次の生年は天文9年(1540)、慶長9年(1604)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
近江に生まれ、浅井長政に仕える
小堀正次は天文9年(1540)に生まれました。父は小堀正房です。通称は新助といい、名は「政次」とも記されます。
小堀氏は、近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)を本拠として興った一族です。正次はまず、近江北部を支配していた浅井長政に仕えました。
浅井長政は、織田信長の妹・お市の方を妻としたことで知られます。当初は信長と同盟関係にありましたが、やがて対立。天正元年(1573)、本拠の小谷城が織田軍に攻められ、浅井氏は滅亡しました。
主家を失った正次は、その後、新たな道を歩むことになります。

写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
浅井氏滅亡後、豊臣秀長の家臣に
浅井氏が滅んだ後、正次は羽柴秀長、のちの豊臣秀長に仕えました。秀長は豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一事業を軍事・政治の両面から支えた人物です。のちには大和・紀伊などに広大な領地を持ち、豊臣政権の重鎮となりました。
秀長の死後は秀吉に仕える
しかし、豊臣秀長は天正19年(1591)に死去。その後、正次は秀吉に仕え、大和・和泉(現在の大阪府南部)に合わせて約5,000石を領したとされます。
浅井長政から秀長、そして秀吉へ。正次は主君を失うたびに新たな政権の中で居場所を得てきました。
とりわけ秀長は大和を領していたため、その旧臣である正次が秀吉のもとでも大和などに所領を与えられたことは、正次と豊臣政権との継続的なつながりを示しているといえるでしょう。
関ヶ原では徳川家康に従う
慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成らの対立から、関ヶ原の戦いが起こりました。正次は徳川家康に従い、東軍側に属します。
それまで豊臣家に仕えていた武将たちにとって、関ヶ原は今後の命運を左右する大きな分岐点でした。正次は家康側を選び、その選択によって江戸時代にも大名として生き残ることになります。

写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
関ヶ原の戦い後、正次には、それまでの所領に加えて備中国(現在の岡山県西部)で1万石が加増されました。
その結果、正次の所領は合わせて約1万5,000石となり、大名に列します。
備中松山城に入り、国務を担う
関ヶ原の戦い後、正次は備中松山城に入りました。『世界大百科事典』(平凡社)によると、正次は備中代官として松山城に在城し、国務を沙汰したとされています。

写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
小堀遠州へ受け継がれたもの
正次の子が、小堀政一です。後世、「小堀遠州」の名で知られる人物で、茶道遠州流の祖となったほか、作事奉行として建築や造園にも優れた才能を発揮しました。
慶長9年(1604)2月29日、正次が65歳で亡くなると、政一がその遺領を継ぎます。政一も父と同じく備中代官として松山城に在城し、その後は備中・近江などの国奉行や伏見奉行を歴任しました。
遠州の活躍は本人の才能によるところが大きいのはもちろんですが、父・正次が浅井氏滅亡後も秀長、秀吉、家康へと仕え続け、小堀家を近世大名として存続させたことが、その土台になったともいえるでしょう。
まとめ
浅井から豊臣、そして徳川へ。小堀正次の歩みは、主家の滅亡や天下の政権交代を経験しながら、そのたびに新しい時代へ適応した武将の姿を示しています。
また、息子は茶人・作庭家として名高い小堀遠州です。遠州の華やかな文化人としての活躍の前には、戦国から江戸へと家をつないだ父・小堀正次の存在が確かにありました。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『日本大百科全書』(小学館)











