「城主 木下與一郎」という付け城
A:「みき歴史資料館」には三木城内から出土したという備前焼の大甕が展示されていました。食糧の保存に用いられたそうです。三木合戦というと「三木の干し殺し」という兵糧戦が行われたことが有名ですが、食糧保存のための大甕が空になったときの城兵の気持ちを考えると切ないですね。さらに、複製とはいえ「三木合戦絵図」も見ごたえがありました。14分の三木合戦解説ビデオも充実の内容です。感慨深かったのは、三木合戦当時の付け城群のジオラマ。多くの付け城の中のひとつ君ヶ峰城の城主として「木下輿一郎」の名が記されていたのです。『豊臣兄弟!』劇中では、与一郎(演・高木波瑠)は小一郎正室慶(演・吉岡里帆)の連れ子という設定でしたが、実際には小一郎の実子といわれています。その与一郎が、三木合戦の攻防では一城の主として名前が刻まれているのです。
I:『秀吉の播磨攻めと城郭』、私も読んでみましたが、木下輿一郎が城主を務めていたという情報は『播磨鑑』『別所記』に記されているそうです。
A:ちなみに同書は、秀吉による播磨での攻防をわかりやすく説明してくれる良書。三木城周辺の付け城群についても細かく解説されて、ややマニアックではあるのですが、地域に根差した学芸員ならではの情報が多く、おすすめです。さて、三木城本丸跡には、2002年に地元のライオンズクラブが寄贈した「馬上の別所長治像」が立っています。本丸跡から三木市街を望めば、眼下に美嚢(みのう)川が流れ、天然の要害であったことがわかります。つまり攻め難い。
そのため、「三木の干し殺し」という兵糧攻めを採用したのだと思います。歌碑に刻まれた「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかはる我身とおもへば」という長治の辞世の句も胸に迫ってきます。「三木城が落城しようという今、もう誰のことも恨む気持ちにはならない。自分が切腹することで、多くの城兵の命が助かるのだから」ということでしょうか。かつて「城内」にあったと説明される「雲龍寺」の脇には、別所長治と正室の首塚が寄り添うように厳かに佇んでいます。無念の内に自害した長治ですが、自身の城の中に埋葬されたのであれば、せめてもの供養になっているのかなと感じました。

I:けっこう見ごたえありそうですね。それで、秀吉本陣跡にも行ったんですよね?
A:秀吉の本陣は、三木城から4kmほど離れた平井山に設けられました。入山口から主郭までは10分ほど。三木城方面を望める眺望で往時を偲ぶことができます。主郭の先にも城の最高地点(標高145m)まで「太閤道」と称される道が続くのですが、今回は主郭のみで断念しました。入山口には「五七の桐紋」の幟が立ちますが、ここでも『豊臣兄弟!』の「と」の字もありません。それでも『豊臣兄弟!』で秀吉らが集った場所だという雰囲気は濃厚に感じることができました。
I:なるほど。なんだか私も行ってみたくなりました。
A:「みき歴史資料館」では、企画展「秀吉・秀長の播磨攻めと城郭」が7月25日から9月27日まで開かれます。会期中、ギャラリートークも複数回開催されるようですよ。「町全体が、いまなお戦国別所の思い出のなかに生きているような印象を受けた」という司馬遼太郎さんのフレーズを換骨奪胎すると、「町全体が、いまなお戦国別所の気風を濃厚に残して生きているような印象を受けた」ということになります。

●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











