幽霊坂/港区三田 近くに寺院が並び、もの寂しい坂であることから名付けられた。右手は「おしろい地蔵」として知られる化粧延命地蔵。特に肌の悩みに効くといわれ、今も信仰を集めている。

近年、街歩きの楽しみ方が大きく広がっている。名所旧跡を訪ねるだけではなく、坂道や崖線、谷、窪地といった「地形」や、暗渠、古道など「人の営みの痕跡」に注目し、街の成り立ちや歴史を読み解きながら歩く人が増えているのだ。

なかでも東京は、坂道を楽しむには格好の街である。23区内には、名の付いた坂だけでも900ほどあるといわれる。少なからぬ坂の名がつけられた江戸時代の町割りは、数万年単位の大地の営みでできあがった独特の地形を活かしており、現代の東京はそれをそっくり踏襲しているという。

しかし、坂道の魅力は歴史や地形だけではない。坂の下から見上げれば、その先に何があるのか見えない。上から見下ろせば、道は街の中へ吸い込まれるように消えていく。曲がり、分かれ、上り、下る。その先に何が待っているのか——。

坂道の魅力に惹き込まれる写真

そんな坂道を、地形や歴史の対象としてだけでなく、一つの「物語」を宿した風景として捉え、坂道写真に新たな地平を開いた写真家がいる。“坂道写真家”の皆川智彦さんだ。

2026年7月29日、皆川さん初の写真集『東京坂道100景』が刊行された。

この写真集には、これまで東京23区内で撮影してきた膨大な作品から100点を厳選、「幽霊坂」「胸突坂」「異人坂」など古くから名を残す坂はもちろん、住宅街や寺町、川沿いや線路脇、超高層ビル街にある名もない坂まで、多彩な東京の坂が登場する。

高輪の狭小階段(仮称)/港区高輪 全長約80mの階段路地。道幅はわずか1.5mほどで、まるで尾道(広島県)の路地に迷い込んだかのような趣がある。「地図にもないこうした坂では、なぜかしばしば宅配の配達員と出会う」(皆川さん)。

皆川さんの写真が独特なのは、坂そのものだけを切り取ろうとしないことにある。雨の夜、濡れた路面が街灯やネオンを映し、傘を差した人が坂を上っていく。夕暮れには家路を急ぐ人の後ろ姿があり、雪の日には白く霞む坂の向こうへ人影が消えていく。

桜の花びらが舞う坂、風の強い坂、早朝の静かな坂——。時間、季節、天候、そしてそこを行き交う人々が加わることで、一つの坂がまるで映画のワンシーンのような物語を帯びていく。

とりわけ「夜」「雨」「人影」は、皆川さんが撮影を重ねるなかで見いだした重要な要素だ。晴天で、人や車のいない風景を理想とする従来の風景写真とは反対に、悪天候や人の存在を積極的に取り込む。

東福院坂(新宿区若葉) 坂の名は近くの寺院、宝珠山東福院に由来。「谷を挟み向かい合う須賀神社の階段から撮影していると、赤い傘の女性が現れて、迷ったのか、誰かを探しているのか、辺りを見回していました」(皆川さん)。

雨に濡れた路面は光を映す舞台となり、街灯はスポットライトのように人を浮かび上がらせる。その姿から、見る者は「この人はどこから来て、どこへ向かうのだろう」と、写真の前後にある時間まで想像し始める。

「坂道には、人の想像力を刺激する不思議な力がある」と皆川さんが言うとおり、写真を眺めているだけで、坂道の魅力に惹き込まれる思いがする。

“坂道写真家”の先達も驚いた

2025年9月、キヤノンギャラリー銀座で開かれた皆川さんの写真展「都市に潜む異形の道/東京坂道三十六景」を訪れ、その表現に驚いた一人が“坂道写真家”の先達、タモリ氏だった。

自身は「昼間で天気がよく、しかも人も車もいない風景」を好んで撮ってきたのに対し、皆川さんの写真は「夜で天気が悪く、しかも人も車もいる」。それを「実にいい。坂道がまるで異界への入口であるかのように見え、私の知らない坂道がそこにあった」と、近著の『お江戸・東京 坂タモリ 新宿・渋谷・目黒区編』(写真・著タモリ/ART NEXT刊/2026年)に記されている。

初めて見る場所なのに、なぜか懐かしい。坂の向こうに何かがありそうで、目を離せない。写真を見た人からは「子どもの頃に歩いた坂を思い出した」という声も多く寄せられるという。

特定の場所を記録しながら、見る人それぞれの記憶や想像力を呼び覚ます。それこそが皆川さんの坂道写真の大きな魅力である。

『東京坂道100景』
著者/皆川智彦
定価/7700円(税込)
判型/A4変形判 152ページ
小学館刊

8月、刊行記念の写真展を開催

そして今回、『東京坂道100景』の刊行を記念し、2026年8月19日(水)から25日(火)まで、新宿 北村写真機店B1Fベースメントギャラリーで写真展「東京坂道百景/手漉き和紙による四十四景」が開催される。

展示されるのは、写真集収録作品を中心とした44点。注目したいのは、すべての作品が手漉き和紙にプリントされることだ。一般的な写真用紙とは異なる柔らかな質感が、夜の闇や雨の湿度、街灯のにじみ、人影の気配を独特の表情で浮かび上がらせる。

どこか浮世絵にも通じる世界観のなかに、現代の東京が立ち現れる。写真集とはまた異なる、プリント作品ならではの魅力を味わえる展示となる。

夕やけ だんだん/荒川区西日暮里 階段南側の建物が解体された際に撮影した写真で、谷中の街を一望できる。荒涼とした風景にも見え、皆川さんが気に入っている1枚だが、現在はマンションの建設が進み、この景色はもう見られない。

多彩なゲストとのトークイベント

会期中には、皆川智彦さんと多彩なゲストによる4回のトークイベントも開催される。

初日の8月19日は、東京スリバチ学会会長・皆川典久氏を迎え、「東京は世界遺産級に面白い——スリバチと坂道から読み解く東京の魅力」をテーマに、谷や窪地、高低差から東京という都市の面白さを読み解く。

8月21日は、古道・古地図研究家の荻窪圭氏と「渋谷川と目黒川が織りなす歴史の旅——古地図と写真で読み解く坂と街の成り立ち」。現在の街並みと古地図を重ねながら、坂や川、古道に刻まれた東京の時間をたどる。

8月22日は、写真家ハービー・山口氏をゲストに「この道のむこうへ——希望を写す写真の力」。長年「生きる希望」をテーマに人々を撮り続けてきた写真家とともに、道や人を撮ること、写真が見る者の想像力に働きかける力について語る。

最終回の8月23日は、半世紀以上にわたり東京の下町や人々の暮らしを見つめてきた写真家・大西みつぐ氏を迎え、「写真の距離感——半世紀以上、人と街を見つづけてきたまなざし」を開催。都市と人にどう向き合い、どの距離から写真に収めるのか。写真表現の核心に迫る対話が期待される。

坂道は、ただの傾斜した道ではない。そこには土地の成り立ちがあり、街の歴史があり、日々を生きる人々の営みがある。そして坂の先が見えないからこそ、私たちはその向こうに、まだ見ぬ風景や物語を想像する。

見慣れた東京の中に潜む、もう一つの東京。ときに郷愁を誘い、ときに異界への入口のような姿を見せる坂道の世界を、写真集と写真展でじっくり味わってみてはいかがだろうか。

皆川智彦写真集『東京坂道100景』発売記念
写真展「東京坂道百景/手漉き和紙による四十四景」

会期:2026年8月19日(水)〜25日(火)10:00〜21:00
会場:新宿 北村写真機店 B1F ベースメントギャラリー
入場:無料
※トークイベントは全4回。各回事前予約制・定員20名・参加無料。満席の場合は、会場の状況により先着順で若干名の立ち見参加が可能です。
詳細はこちらから:https://www.kitamuracamera.jp/ja/information/exhibition/saka/

 

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