文/濱田浩一郎

三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康が見せた知略とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」においては武田信玄は高嶋政伸さんが演じていました。高嶋さんと言えば1996年放送の大河ドラマ「秀吉」では主人公・秀吉の弟・秀長を演じていましたが、「豊臣兄弟!」では信玄を演じたのです。その信玄と家康との戦い(三方ヶ原の戦い=1573年)にまつわる逸話が『武者物語』(名将談・武器故実・首実検法などを内容とする書物。江戸時代初期の成立)に収録されています。
皆様、ご存知のように三方ヶ原の戦いは、家康の敗北に終わります。家康は命からがら居城の浜松城に退いたのですが、この時、家康の家中に高木九助広正という侍がおりました。広正もまた退却中だったのですが、取って返し、武勲を立てます。法師の首を取り、家康に捧げたのです。家康はその法師首を見て次のように伝えたと言います。「戦に敗れたということで、城中は狼狽えている。その首を城中の者に見せよ。そしてこの首は信玄のもので、信玄を討ち取った。戦は味方の勝利じゃと、その方が触れ回れ」と。
広正は主君・家康の意向を承り、法師首を太刀の鋒に貫いて、大音声で触れ回ります。浜松城中の者たちは、広正の言葉を聞いて、安堵し、喜んだとの逸話が『武者物語』に載っているのです。これは家康が知略に優れていたことを示すものですが、後世の創作でしょう。
三方ヶ原の戦いにまつわる逸話は『武者物語』にまだ収録されており、それは同合戦の戦死者に関する話です。合戦で谷に落ちて亡くなった将兵が数千もいたそうで、その将兵の亡霊が声を上げ、それはそれは凄まじいものであったとのこと。天に響くような亡霊の雄叫び……その話を耳にした家康は、高僧に相談します。高僧は将兵の霊を弔うことを提案。7月13日から同月15日まで慰霊を行うのでした。色とりどりの絹を貼った器を作り、念仏踊りを催行し、慰霊したのです。この3日間の慰霊により、亡霊の声は止んだとのこと。同書によると、その踊りは今に至るまでも続いているとのことです。
武田信玄の家中にいた伝令役「むかで衆」とは?
さて家康と戦い勝利を収めた武田信玄の家中には同書によれば、使番(伝令役)の武者が12人いたそうです。彼らは白い旗に黒いムカデを描いた指物を持っていたとのこと。しかし、その中で、ムカデの指物を持たずに出陣した武者がおりました。初鹿伝右衛門です。信玄はそれを目撃し「12人の使番の中で白い指物を付けているのは誰か」と尋ねます。「初鹿伝右衛門」であることを聞いた信玄は怒ります。軍法に背いているというのです。「なぜ、軍法に背くのか」と問う信玄。すると初鹿伝右衛門は「御軍法には少しも背いてはおりません」と返答するのです。
一体、それはどう言うことでしょうか。伝右衛門は言います。「指物の旗竿をはめる輪の脇に一寸のムカデを描いております」と。当然、なぜそのようなことをするのかと誰しも疑問に思います。信玄がそのことを尋ねると「人並みのムカデを付けておいたのでは、戦場において私の手柄が他の者と紛れてしまいます」と伝右衛門は返答するのでした。信玄は笑って伝右衛門を許したということです。これはいわゆる「むかで衆」と呼ばれた使番に関する逸話です。ムカデを描いたのは、ムカデが軍神・毘沙門天の使者とされているからです。
むかで衆の指物は白と黒だけではありませんでした。墨地に朱や銀、青地に赤など様々あったと伝えられています(『甲陽軍鑑』)。ちなみに『甲陽軍鑑』(甲斐国の戦国大名・武田氏の戦略・戦術を記した軍学書)には「御使いたすは、大方むかでの差物の衆也」として「諏訪越中・工藤市兵衛・漆戸左京亮・小山田弥助・小山田八左衛門・初鹿弥五郎(伝右衛門)・吉田左近・小山田又二郎・小宮山内膳・三枝善八郎・小山田十郎兵衛・原勘四郎・金丸助六郎」などの名を挙げています。ちなみに『甲陽軍鑑』では、初鹿伝右衛門は指物に「香車」という字を書き、信玄の機嫌を損ねたとあります。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











