文/藤田達生

「半島をゆく」の記念すべき第1回の取材先は、なじみ深い知多半島だった。

三重県津市にある拙宅は丘の上にあるので、遠く対岸に見える日が少なくないのだ。地元の校歌に、「伊勢海(いせのうみ)」と親しみを込めて歌われることが多いように、古くから伊勢の諸湊と尾張に属する知多半島の諸地域とは伊勢海を介して一衣帯水の関係にあった。

話は450年も遡るが、織田信長が三好氏を追い払って念願の上洛を果たした永禄11年(1568)から安土に本拠地を移す天正4年(1576)までの約9年間は、岐阜を本拠として天下の実権を握った時代だった。信長は、しばしば岐阜と京都との間を往復して、室町幕府体制を支えた。

ここでは、この時期の信長の中核的な領国が尾張・美濃・伊勢という環伊勢海三カ国だったことに着目したい。

信長が打ち倒した三好政権をその経済基盤から環大坂湾政権と表現するならば、それにかわって登場した織田政権は環伊勢海政権とよぶべきだろう。

信長は、永禄12年9月に伊勢国司北畠氏を降して次男信雄をその養子として伊勢を統一する。これをもって濃・尾・勢三か国体制すなわち環伊勢海政権が成立した。足利将軍を奉じる武家政権の基盤が、大坂湾周辺から伊勢湾周辺へと一気に交替したのである。

この政権は、萌芽的ではあるが、海運力に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものだった。筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。

信長がめざした海洋国家とは、港湾都市の流通と平和を保障することで租税を集積し、その卓越した資本力で強力な軍隊を組織して商業圏をさらに広げていくことに本質をもった。一所懸命に先祖伝来の田畠を守り抜くという意識は、毛頭なかったのだ。

この時代の本拠地岐阜の様子について、実際に同所を訪問したイエズス宣教師は、「人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数える」という大都市となっていたこと、しかも「同所では取引や用務で往来する人々がおびただしく、バビロンの雑踏を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まって」繁盛していたことを、克明に記録している(フロイス『日本史』)。

おそらく東海道や東山道(後の中山道)のみならず伊勢海を介して大量の商品が集積されたのだろう。信長は、やがて琵琶湖に面する安土に本拠を移し、伊勢海に加えて日本海と瀬戸内海という三つの海を支配し、東アジアの外交秩序の再編を意識した本格的な構造改革に着手する。

■伊勢湾に信長政権の原型を見る

環伊勢海三か国のなかでも、伊勢の掌握は特に重要である。東海道という東国と京都を結ぶ大動脈ばかりか、関東への足がかりとなる太平洋海運を押さえることを意味したのだ。同国には、桑名(三重県桑名市)・安濃津(津市)・大湊(三重県伊勢市)に代表される、関東と結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市が点在したからである。

戦乱状態が深刻であればあるだけ、地域社会の諸階層に強烈な平和願望をもたらす。環伊勢海地域のなかでも、特に斎藤氏や今川氏という梟雄の領国に挟まれ、長らく草刈り場となった尾張のような境界地域にこそ、強力な領主権力が出現する可能性が高かった。日本の近世は、まさに境界中の境界といってよい地域から誕生したのだ。

また、もう少し視野を広げれば三好政権から織田政権への政権交替は、東国社会の成熟とも密接に対応するものということもできよう。東国と西国の境目にあたる環伊勢海地域から、織田・豊臣そして徳川という、かつてない強大な権力が誕生したことは、畿内を中心になお強靭な生命力を維持する室町幕府体制と、東国で発達した戦国大名体制との矛盾と緊張が、もっともこの地域で蓄積されていたことを物語るものではなかろうか。

取材旅行中、知多半島の有力水軍佐治氏の大野城跡(愛知県常滑市)から伊勢方面を眺めることがあったが、琵琶湖東岸から湖西の比良の山並みを見た景色とよく似ていることに、ふと気づいた。信長は、安土城を扇の要として佐和山・長浜・大溝・坂本という琵琶湖の要衝に堅城を配して強力な近江支配を実現したが、その原型は環伊勢海政権時代にあったのではないかと思うに至った。

左隻は武家、右隻は朝廷・公家という構成

師崎の延命寺が所蔵する洛中洛外図屏風(以下、屏風と略す)とは、これが3度目の対面だった。紙本金地着色の六曲一双で左隻右隻ともに154.5×355.0センチの豪華な洛中洛外図で、鄙(ひな)(失礼)には超まれなお宝である。残念ながら落款は認められず、狩野派とも土佐派ともいわれるが作者は不明である。

01_N8A5762

延命寺

02_N8A5827

洛中洛外図屏風

寺伝によると、豊臣方の御座船にあった逸品とされ、大坂の陣の際に城から脱出した姫君が乗船し航行していたのを稲生重政が捕らえ、屏風は重政の主君である尾張藩船奉行の千賀(せんが)志摩守から延命寺に寄進されたという。その後姫君は自害し、その菩提は今も延命寺門前の姫塚にて篤く供養されている。

このような秘話を伴う大型の屏風には、大天守を中心に二条城がきわめて詳細に描かれていたり(左隻)、御所に南蛮人と覚しき使節が献上品を運んでいたり(右隻)と、この時代を研究する者にとって、とにかくワクワクするデータ満載で、今回も興奮の嵐のなかで、あっという間に予定時間がオーバーしてしまった。

03_二条城01
(左隻)

04_御所01
(右隻)

年に1回しかご開帳しないお宝を、これだけ長時間わたって集中して鑑賞した果報者は少ないと思うのだが、実は見れば見るほど謎が深まるばかりなのだ。研究目的で特に拝観させていただいたにも関わらず、なにもまとめられないままで申し訳なく思っていた。

しかし今回は絶好の発表の機会が与えられたので、謎の一端をご紹介し、大胆な仮説(妄想?)を披露してみようと思う。

05_N8A5785a

まずは、屏風の主題について考えたい。左隻には、その中心に徳川方の京都屋敷二条城が華やかに描かれており、大手門前の堀川通りには三基の神輿の練りが続き、内外の見物人が集い活気に満ちている。右隻は、右上部に描かれる豊国廟と方広寺、左中央の御所という二つゾーンが中心である。当時の豊臣家は関白家と位置づけられていたから、全体としては朝廷・公家がメインといってよい。

そうすると、左隻は武家で右隻は朝廷・公家という構成をとり、両隻下部に描かれた京都を代表する祭礼である祇園会のめでたさと相まって、公武一統を寿ぐ洛中洛外図ということができる。主題をこのように理解したとき、なぜ大坂方がわざわざこれを制作せねばならなかったのかが疑問となる。

豊臣方が夢見た「公武一統」「天下泰平」

秀頼が成人した暁には、関白となり天下人として君臨するのが淀殿をはじめとする大坂方の念願だったのではないか、といぶかる読者も多いのではないか。そうなのである。どちらかといえば二条城周辺に活気のある屏風を、大枚はたいて制作させる意味などあったのだろうか。私にとって、これが最大の謎だった。

これを解く鍵は、制作年次に求めることができる。従来の研究によると、描かれた多数の描写建物の存在時期を詰めた内容年代としては、慶長11年~同12年と推定されている。当然のこととして、制作年代は慶長12年から大坂の陣の勃発する慶長19年までと考えねばならない。

大坂方が徳川家との融和による公武一統の願いをもった時期といえば、やはり慶長16年の京都二条城における家康と秀頼の会見の時期以降ではないだろうか。当時の日記類には、「大坂の上下万民、京堺あたりの畿内の庶民も、会見が何事もなく終わった事を悦び、天下泰平を祝った」という記事がみえるが、大坂方の願いも会見の成功によって誕生した「公武一統」「天下泰平」だったとみることはできよう。

そうすると、屏風の制作年代は慶長16年~同19年ということになる。しかし徳川方からみれば、二条城の会見はそのような意味をもたなかった。確かに、会見の折の家康の秀頼に対する礼遇は並々ならぬものではあったが、徳川家の城郭へ豊臣家当主を訪問させたことの政治的意義を過小評価してはならない。

秀忠が将軍に就任した慶長10年以来、家康が執拗に要求し続けてきた秀頼の出仕がここに実現したのである。これによって、秀頼が家康に臣従したことが天下に明示されたのだ。

屏風に籠められた天下泰平の願いは、あくまでも大坂方の願いだったのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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