文/浅見祥子

(配給:マーチ)
監督/鄧依涵(エンジェル・テン)
出演/劉俊謙(テレンス・ラウ) 范少勳(フェンディ・ファン)
8/7~渋谷シネクイントほか全国順次公開
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レスリー・チャンは、本当に特別な映画スターだった。『欲望の翼』『さらば、わが愛/覇王別姫』『ブエノスアイレス』、彼のいくつかの出演作を挙げるだけで、香港映画に夢中になったあの頃を思い出す。背がスラっと高くて潤しい見た目、とかではない。でも彼がいったん映画に登場すると、他にどれほど華やかなスターがいても、サッと視線を集めてしまう。一気にその映画自体が本物の空気をまとい、つくりものであることが取っ払われ、物語の世界が生々しく息づいていく。そうして映画が終わったあとも、彼の演じた役はその世界に閉じ込められたまま。この現実とは別にあるパラレルワールドに生き続けるんじゃ? と思わせる。それだけに2003年、彼が46歳という若さで自ら生きることを止めてしまった時、むしろそっちのほうがリアリティを感じられなかった。もう二度と彼の新作が観られないなんて……嘘でしょ?
そんなレスリー・チャンが、映画の中には奇跡というものが存在する、その証として登場する作品がある。それが『鯨が消えた入り江』。でもこれは別に、レスリー・チャンに関する映画ではない。彼はこの物語の、ほんの小さなひとつのピース。でもその役回りは、後から振り返っても、レスリーにしか出来ないと思わせる。

『鯨が消えた入り江』はこんな風に始まる。
太陽の光をキラキラと反射した海、夜空を儚く彩る花火、砂浜に座って海を見つめる男の後姿。そんな美しい記憶の断片のような映像のコラージュに、ある男の声が重なる。
この広大な宇宙では、
それぞれの人生が平行線のように独り寂しく進んでいく
他人と重なることは
それがほんの一瞬であっても
すべて奇跡だ
声の主は、人気作家の天宇(ティエンユー)。どこか内省的でナイーブな声の彼のことはもちろん、海を眺める男のこともまだ何も知らない。なのに、ほんの数分で、切ない予感でいっぱいになってしまう。センチメンタルな何かに触れ、もうその余韻に浸っているような気になる。これからいったい、どんな物語が始まるのだろう? 観客は一瞬で、映画の世界に入り込む。

ティエンユーは、盗作疑惑で激しいバッシングを浴びて、生きる気力を失っていた。そんななかで思い出すのは、かつて文通した少年が教えてくれた、天国に繋がるという‟鯨が消えた入り江”のこと。香港から台湾へ向かうティエンユー。旅先の台北、その繁華街で酔いつぶれ、ぼったくりに遭った彼を救ったのが地元のチンピラ、阿翔(アシャン)だった。正気に戻り、見知らぬ部屋の誰かのベッドの上で目覚めたティエンユーは、戸惑いながらもやがて旅の目的を語る。アシャンは、鯨の消えた入り江へ連れていくことを約束。レトロなレンタカーを借り、2人のひと夏の旅が始まる――。
林の奥にある誰にも知られていない秘密みたいな滝壺を見つけてはしゃぎながら飛び込んだり、アシャンの妹分が営む民宿を訪れ、海辺でスイカ割りをしたりだるまさんが転んだをしたり、天国にいるみたいに3人ではしゃいだ時間を過ごす。そんな時間は永遠には続かない。「一緒に行こう」と約束した花火大会の日、なぜかアシャンは姿を見せない。翌日にはそのまま仕事のため、ティエンユーは香港へ帰るしかなかった――。

そこから、ティエンユーとアシャンの本当の物語が始まる。なぜアシャンは姿を消したのか? 彼が抱えた物語、ティエンユーが巻き込まれた盗作疑惑の真相…。都会のビル群で仕事をしながら、アシャンと過ごしたことが現実味のない、夢みたいな日々に思えてくる。
ティエンユーのそんな感覚を、観客もまた共有する。東南アジアのじっとりと肌にまとわりつくような熱気にむせる夜、真っ青な空と波のきらめく海、素足が焼けるように熱い砂浜、そこで笑い転げたスイカ割り。ああ夏! 暑くて短くて、その只中にいるときはたまらんな! と思うのに、過ぎ去ってしまうと、どうにも恋焦がれてしまう季節。誰もがよく知るあの感覚を、特に目新しいやり方ではないのにきっちりと映像にしていて、いつまでもそこに浸っていたいと思わせる。
観客はティエンユーと共に深い喪失感を味わい、やがてアシャンの孤独を知る。彼が焦がれたもの、なんとしても守ろうとしたものを。そのあまりに純で美しい思いに、すっかり心を打たれてしまう。いつもならあまりに甘いセンチメンタル! と冷静な心がもたげるかもしれない。でも、いつしかこの映画にすっかり心を開いていて、そんな斜めに傾いた心は姿を消していることに気づく。
これからは夏がくるたび、「ああ『鯨が消えた入り江』を観たい…」と思うかもしれない。ティエンユー役の正統派ハンサム、テレンス・ラウがまとう知的で内省的な佇まい、アシャン役のフェンディ・ファンのちょっと野性的でやんちゃな男子のカワイさ。もちろんそれも、また観たい! と思わせる理由のひとつ。でも観るというより、あの空気感にもういちど身を置きたい、という方が正確かもしれない。
映画の中には時々、奇跡が起きる。フィクションだから許されるような、ありえないはずのものを描くことで真実に近づけるような出来事が。ティエンユーとアシャンにも、そんなことが起きるのだろうか? 現実の世界で起きたらいいのに、と思うようにありえないこと。それは例えば、レスリー・チャンの新作が観られるという類のもの。名前を出すだけで、誰もがそう願っていて、その感覚を多くの人と共有できる。それがレスリー・チャンというスターなのだろう。
もうひとつ、この映画が今回公開されるまでの道のりはとても変化球。Netflixで配信されながら、ファンの声に後押しされて昨年8月に劇場公開。12館に始まり、累計57館まで公開規模が拡大し、満員御礼は120回以上。そうして今年2月にブルーレイが発売されたあと、このたびリバイバル上映が決定した。どうしても映画館で観たい! と思わせる何かがあるということだろう。
もしこの物語にまだ触れたことがないのなら、まず映画館で観ることをおすすめする。暗闇の中に身を置き、ティエンユーとアシャンのあの夏を体感するのは、きっと贅沢な時間になるだろう。

【映画深堀りネタ帳】
サブスク時代、『鯨が消えた入り江』をより深く味わうための映画ネタを紹介。
『レスリー・チャン 嵐の青春』(1982年製作)
酔いつぶれたティエンユーを連れ帰ったアシャンの自宅には、いくつかの映画のポスターが貼られている。ひとつは、レスリー・チャンが常盤貴子と共演した『もういちど逢いたくて/星月童話』で、もうひとつがこれ。レスリーが演じるのは、デザイナー志望のルイ。映画は、あらすじを書くのは不可能! と思えるはちゃめちゃさ。どの出演者も、どこまで棒読み? みんな演技は初めて? と思わせるなか、レスリー・チャンはあの黒目がちな瞳で静かに確かにそこにいる。童顔のせいか、当時26歳という年齢よりずっと幼い印象。そして映画の驚愕のラストはインパクト大。
文/浅見祥子(映画ライター)
雑誌「BE-PAL」(小学館)、「田舎暮らしの本」(宝島社)、web「大人のおしゃれ手帖」(宝島社)、「シネマトゥデイ」などで映画レビュー、俳優&監督インタビューを執筆。また「芸能マネージャーが自分の半生をつぶやいてみたら」などの書籍ほか、赤楚衛二「A」、菅田将暉「着服史」、小関裕太「Y」、藤原大祐「FeaT.」、菅井友香「たびすがい」(すべてワニブックス)などでインタビューを担当。











