
ライターI(以下I):『豊臣兄弟!』第24回です。物語は天正7年(1579)の三木合戦の模様が描かれています。
編集者A(以下A):前週描かれた竹中半兵衛(演・菅田将暉)の死が天正7年6月13日です。最近、徳川家康(演・松下洸平)が登場していませんが、ほぼ同時期に浜松では、家康嫡男松平信康と正室築山殿が亡くなるという一大事件が勃発していました。築山殿が天正7年8月29日没。信康が同年9月15日没ということになります。
I:織田信長(演・小栗旬)目線でいうと、東に武田家との内通疑惑も生じた徳川家の問題を抱え、西では織田方から離反した荒木村重(演・トータス松本)と別所長治(演・下川恭平)と対峙せねばならない状況だったんですね。
A:明智光秀(演・要潤)も丹波の八上城(兵庫県丹波篠山市)で波多野三兄弟(秀治、秀尚、秀香)と合戦中です。浜松、丹波八上城、三木城と有岡城とあちこちで戦いや諍いがあったということです。家康目線ですと築山殿事件、光秀目線だと八上城、官兵衛目線だと有岡城、そして秀吉(演・池松壮亮)・小一郎(演・仲野太賀)目線だと三木合戦。ということで本作では、有岡城の攻防と三木合戦が描かれたということになります。
荒木村重一党への磔刑・斬首の仕打ち

I:その有岡城ですが、小一郎が荒木村重の正室だし(演・山谷花純)を手紙で「調略」していたという展開になりました。だしという女性は「今楊貴妃」とも称された美女と伝えられます。ところが、荒木村重はわずかな供回りのみ引き連れて、有岡城を脱出して尼崎城に入るわけですね、戦国史の謎のひとつです。
A:荒木村重の有岡城脱出に関しては、単純に逃げたともいわれますが、村重に好意的にみれば、尼崎城に入って、捲土重来を期したともいえます。関西にお住まいの方々なら有岡城と尼崎城の距離感を把握できるかと思いますが、JRでいうと伊丹駅から尼崎駅は3駅しか離れておらず、直線距離でいうと8キロほどです。村重からすれば、毛利の援軍を期待していたのでしょうが、時間ばかりが過ぎて、有岡落城のほうが早かったということになります。もともと信長と誼(よしみ)を通じていて寝返った浅井長政、松永久秀の末路を見ても、裏切り者に対する信長の仕打ちは苛烈ですから、村重も覚悟は決めていたはずです。
I:有岡城に籠った女性たちが磔刑(たっけい)に処され、だしも含めた妻女は斬首となりました。やっぱり裏切り者は許さないという信長の考えは強固だったんですね。でも、「あれ?」と思ったのが、手紙を通じて調略していたという設定なのに、小一郎はだしの助命を訴えなかったのかな? と思いました。六条河原の処刑場に現れただしがかわいそう過ぎて……。「小一郎、なんとかしようと思わないの!」と叫びそうになりました。
A:だしも含めて斬首された様子が描かれて、戦国時代というのはなんとも辛い時代だったというのが可視化されました。処刑の前には、尼崎城に籠る村重に最後通告をしたそうですが、村重が拒絶したために、全員処刑ということになったのです。
I:そういえば、織田の武将がこっそり銭で買われて毛利からの有岡城への兵糧を運んでいました。そんなことが実際にあったのでしょうか?
A:小一郎が「銭で奪われた心なら銭で取り戻せる。じゃが、いくら銭を積んでも、命は取り戻せぬ」と優等生的発言をしていました。実は荒木村重の謀反の理由についてはたくさんの説がありまして、その中のひとつに、「村重の家臣が本願寺に兵糧を横流ししていて、村重がそのことが信長に発覚するのを恐れていた」というものがあります。そのエピソードを流用したのかなと思いました。そういうことをする兵が実際にいたということでしょう。でも、有岡城攻めの際にそういうことがあったかどうかはわかりません。
I:既に信長から家督を譲られていた織田信忠(演・小関裕太)がすぐに「父上なら、そう申すはずじゃ」というフレーズを多用していました。それがなぜかツボに入った私です。

12年ぶりの「軍師官兵衛」誕生

A:その織田信忠が播磨平定に関して自説を開陳しているところに、杖をついた官兵衛(演・倉悠貴)が現れました。「私は播磨に生まれ育ち、別所がいかに播磨の国衆から慕われているかを知っておりまする。守護である赤松の力が失われて以来、別所が立つなら立つ、別所が引くなら引く、我らは別所と共に……幼き頃よりそう聞かされて参りました」と言い始めます。
I:とても印象深い場面になりました。
A:官兵衛の台詞が含蓄深いのですよ。もともと播磨の守護は赤松氏です。足利尊氏に味方した赤松円心(えんしん)や、室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐、教康父子などが有名です。別所氏はもともと赤松氏の一族で、守護代を務めていた名門。ですから、官兵衛が「国衆から慕われていた」という設定には無理はありません。そして、秀吉に仕えるまでの官兵衛は、播磨国人の小寺氏のそのまた家臣という立ち位置。
I:なるほど。官兵衛の言っていることは、まっとうな話なのですね。
A:信長が足利義昭(演・尾上右近)を奉じて上洛した際に、諸国の大名に上洛するように書状を発しました。朝倉義景(演・鶴見辰吾)はこれに応じなかったために討伐されることになったのですが、別所長治はこれに応じて上洛し、織田信長と誼(よしみ)を通じていました。もし別所がそのまま織田家といい関係にあったなら、播磨の歴史も変わっただろうと思うんですよね。
I:確かに。播磨国の領域でいえば、江戸時代には、52万石の姫路藩は当初池田輝政が藩主として入りますが、以降譜代大名が入れ替わり立ち替わりで、最終的に徳川譜代の酒井家が藩主となりました。別所氏の拠点の三木は、明石藩領となりました。明石藩も藩主の入れ替えが多かったのですが、家康次男秀康系の松平家が藩主でした。
A:戦国時代は多くの地域で名門が没落していく「下剋上」の時代だったのですが、播磨も名門はほとんど没落してしまいましたね。その別所家ですが、昭和の名投手・別所毅彦さんが末裔だといわれています。南海から巨人へ移籍し、通算310勝を挙げました。晩年は『プロ野球ニュース』などで「ご意見番」として親しまれました。
I:財団法人野球体育博物館が発行しているニュースレター(平成19年発行No.2)「殿堂入りの人々を語る(16)」の中で別所毅彦さんの長男・別所輝昭さんが、「父との思い出」と題したエッセイを寄せています。引用します。
別所家のルーツは、兵庫県三木市の城主「別所長治」で天正8年(1580)に豊臣秀吉によって23歳の若さで滅ぼされ、本家の墓が淡路島にあります。そこへ毎年、父と墓参りに行くのが恒例行事で(中略)初代長治から数えて父が25代目ということで、この世に再びプロ野球を通じて「別所」という名前を全国に知らしめた、実はスゴイ人なのです。
織田信忠は名君だったのではないのか?

A:ところで、織田信忠と官兵衛の場面を見ていろいろ思考しました。官兵衛の意見を聞いて「もとより播磨の総大将は羽柴筑前。好きにいたせ」とものわかりのいい感じでした。こうやって現場にすべてを任せる、委ねるというのは名君の重要な要素。前段で「父上ならこう申すであろう」と言っていたときは、「自分の意見はなく、上役の顔色ばかりうかがう管理職」かと思いましたが、秀吉らにすべて委ねると臨機応変に対応するのは名君の素養があるのではないかと思いました。
I:そんなものですかねぇ。父・信長以外でも、説得力のある人が何かいったらすぐしたがってしまうタイプ、にも見えましたが。でも、新たに「軍師官兵衛」が誕生したってことはわかりました。ただ、『軍師官兵衛』といえば2014年には岡田准一さん主演の大河ドラマ。まさか、「羽柴兄弟」から官兵衛に主役が変更になるのか、ともとれる副題の付け方ではないですか!?
A:いかにドラマとはいえ、うかうかしていると「主演交代」もありえるかも、という緊張感に包まれている現場、という受け止め方でいいのではないでしょうか。
三木合戦大量殺りく説について
I:ということで、史実では別所長治と弟友之が切腹することで引き換えに城兵の命が救われたわけです。
A:「別所長治の美談」を採用したということになりますが、これには反論もあります。上月城や有岡城で城兵らが磔刑に処せられたこととの比較でも、あまりにも寛容な処置ですからね。三木城のある三木市の「みき歴史資料館」の学芸員金松誠さんの『秀吉の播磨攻めと城郭』(戎光祥出版)には、「三木落城時の大量殺りく説について」という一節があります。同書は簡潔にわかりやすく秀吉の播磨攻めについて説明してくれているのですが、三木城で大量殺りくがあったか否かについても丁寧に説明しています。詳しくは同書を手にとって確認いただきたいのですが、「近年の研究で城兵の命が救われたという説は再考が余儀なくされている」と記されています。
I:なるほど。おもしろいですね。さて、物語のラストでは安土城で光秀と信長の間に微妙な空気が流れていました。クレジットには「本能寺まであと2年」の文字。秀吉らが播磨平定をしていた間に何があったのでしょうか。

●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











