はじめに-安藤守就とはどのような人物だったのか
戦国時代の美濃(現在の岐阜県中南部)には、「美濃三人衆」と呼ばれた有力武将がいました。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する稲葉良通(いなば・よしみち、演:嶋尾康史)・氏家直元(うじいえ・なおもと、演:河内大和)、そして安藤守就(あんどう・もりなり、演:田中哲司)です。
彼らは単なる家臣ではなく、西濃地域に独自の勢力基盤を築き、時に主家をも動かす存在でした。とりわけ安藤守就は、斎藤氏から織田信長へと主君を替えながらも勢力を保ち、しかし最終的には波乱の最期を迎えます。
『豊臣兄弟!』では、主君への忠義とのはざまで揺れる人物として描かれます。

安藤守就が生きた時代
安藤守就が生きた16世紀の美濃国は、戦国大名の興亡が激しく交錯する地でした。
もともと美濃は土岐氏が守護を務めていましたが、やがて斎藤道三が実権を握ります。その後、義龍・龍興へと続きますが、国内の統制は次第に揺らいでいきました。
この混乱のなか、西濃地方には有力国衆が台頭します。稲葉良通、氏家直元、そして安藤守就です。
彼らは「美濃三人衆」と称され、単なる家臣というよりも、独立性の強い地域勢力でした。永禄10年(1567)、織田信長の美濃攻略に内応したことで、戦国史の大きな転換点に関与します。
美濃の帰趨を左右した彼らの決断は、のちの織田政権拡大に直結していくのです。
安藤守就の生涯と主な出来事
安藤守就の生年は不詳です。天正10年(1582)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
美濃三人衆として台頭
安藤守就(別名:範俊、定治)は、美濃国河渡城(ごうどじょう)主でした。姓はもとは「伊賀」と称したと伝わっています。
土岐氏、そしてその滅亡後は斎藤氏に仕え、氏家直元・稲葉良通とともに「美濃三人衆」と呼ばれる存在になります。
三人衆は西濃地方に共同の勢力基盤を持ち、独立的な性格を帯びていました。永禄10年(1567)、織田信長が稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略する際、三人衆は内応。これが美濃陥落の決定打となります。

その功により、本領の安堵と杭瀬川以西の共同段銭徴収権が認められました。これは単なる恩賞ではなく、地域支配権の公認を意味していました。
織田家臣としての立場
信長に属した守就は、美濃の有力武将として引き続き重用されます。ただし、三人衆はあくまで強い地域基盤を持つ存在でした。中央集権的支配を進める信長にとって、その独立性は常に潜在的な緊張要因でもあったと考えられます。
決定的だったのは、子の安藤尚就(あんどう・ひさなり)が武田信玄に通じたとされる事件でした。これを理由に、守就は天正8年(1580)に追放されます。
主君を替えて生き延びてきた守就にとって、これは大きな転機でした。
本能寺の変と最期
天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が横死します。守就はこの混乱に乗じ、旧拠・河渡城の奪回を企図。しかし、同じく美濃三人衆の一人であった稲葉良通に攻められ、6月8日、敗死しました。

美濃三人衆のうち、氏家直元は元亀2年(1571)に戦死。守就もまた非業の死を遂げます。三人衆の時代はここに終焉を迎えました。
まとめ
安藤守就は、美濃三人衆の一角として戦国期美濃の命運を左右した武将でした。美濃三人衆の動向を知ることは、織田信長の天下取りの裏側を理解する鍵にもなるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











