文・写真/服部暁美(海外書き人クラブ/オーストラリア在住ライター)
南半球に位置するシドニーは日本と季節が逆転する。日本がお盆を迎える8月、こちらは冬の真っただ中だ。お盆は見えない存在を意識する季節。その雰囲気にどこか通じる静けさが、シドニーの冬のロックス地区にも広がっている。
古い港町の面影を残すロックス地区は、1788年の入植開始後、囚人や自由移民らによって形成されたシドニー最初期の居住地区である。現在も石造りの建物や入り組んだ路地が残り、シドニーの歩みを感じさせる場所だ。
昼間は観光客で賑わうが、冬の夕方以降、その表情は一変する。日没が早く、冷たい風が吹き抜けるこの季節、古い石壁に囲まれた街並みには、過ぎ去った時代を思わせるような空気が漂う。
ロックスの街には、そんな歴史ある佇まいとともに今も人々の間で語り継がれる「幽霊の話」がいくつも残されている。

ロックスへの入口となるサーキュラー・キーは、シドニーの玄関口として知られる港だ。世界遺産のオペラハウスとハーバーブリッジを臨む華やかなエリアで、世界中からの観光客で常に賑わいを見せている。
しかし、この明るい光景のすぐ足元には、港町ならではの歴史の影が沈んでいた。19世紀前半から中頃、ロックス周辺には酒場や簡易宿が軒を連ね、船員や労働者が行き交う活気ある港町だった一方、争いや事故も少なくない地域だった。

サーキュラー・キーからシドニー湾沿いの道を進むと、ひっそりと佇む「キャドマンズ・コテージ」が見えてくる。1816年に建てられたこの小さな建物は、かつて港湾業務の拠点として使われていた。初期の管理人ジョン・キャドマンは元囚人ながら、のちに政府の船頭となり、港を行き交う船の管理に携わった人物である。

この建物には、「窓辺に人影が立っていた」「夜になると中から物音がする」といった話が古くから伝わる。長い年月を刻んだその姿は、ここを行き交った船員や囚人、そして港の発展を支えた人々の記憶と、シドニー黎明期の歴史を今も無言で伝えている。

さらに歩を進めると、歴史あるホテルが点在するエリアに入る。そのひとつが「ラッセルホテル」だ。
この場所にはもともと18世紀末に開設された囚人病院が置かれていた。その後、1887年に現在のホテルが建てられ、現在もホテルやバーとして営業を続けている。1900年のペスト流行時には、ロックス地区全体が検疫の対象となり、この一帯は病と隣り合わせの歴史を刻んだ。

このホテルでとりわけ有名なのが「8号室」にまつわる噂だ。地元で語り継がれる言い伝えでは、娼婦に命を奪われた船乗りの霊が彷徨っているとされ、誰もいないはずのベッドが軋む、足音が響くといった体験談が残されている。
もちろん伝承の域を超えない話ではある。しかし、この場所がかつて病院として使われ、疫病や隔離と向き合った歴史を持つことを知ると、古い建物に漂う静けさが過去にこの街で生きた人々の存在を感じさせるようにも思える。

ホテル周辺から細い路地へと入り込むと、囚人たちの労働によって築かれた砂岩の建物や石畳が残る、ロックスならではの風景が広がる。特に「ナースウォーク」と呼ばれる小さな路地が入り組んだエリアは、歴史と伝承が色濃く残る場所だ。

「ナースウォーク」はその名の通り、周辺の病院で働いていた看護師たちが行き来した道とされる。しかし、この細い路地に刻まれているのは看護師たちの足跡だけではない。病に苦しんだ人々や、当時この街で暮らした人々の歴史もまたこの場所に残されている。
「白い服を着た女性が立っていた」「曲がり角の先に誰かいるのに近づくと消える」といった話は、この一帯では珍しくない。石畳に響く自分の足音すら、別の誰かのもののように感じられる瞬間がある。

最後に紹介したいのが、ロックスでも特に多くの逸話が残るパブ「ヒーロー・オブ・ウォータールー」だ。1843年創業のシドニー最古級のパブで、かつては元囚人や船乗りたちが集う荒っぽい酒場として知られていた。
この店には、今も語り継がれる不穏な伝承がある。酒場で泥酔した客や、店内に仕掛けられた「トラップドア(落とし穴)」によって意識を失った男たちが、人目に付かないよう地下通路へと運ばれていったというのだ。
その先にはシドニー湾へ通じる秘密の出口があったとされ、彼らは船へと強制的に連行されたという。こうした行為は、酩酊した人間を無理やり船に乗せて労働を強いる「上海(shanghaiing)」と呼ばれる手口だったと伝えられている。

この場所で最も有名な伝承が、元オーナーの妻アン・カークマンの霊にまつわるものだ。1849年、当時の店主との間に起きた悲劇によって命を落としたとされる彼女は、今もこのパブに残る存在として語り継がれている。夜中にピアノの音が聞こえる、家具が動く、階段の途中に女性の姿が現れる、無人の部屋から足音が響く……。さらには、地下室で説明のつかない冷気を感じたという証言もあり、訪れる人々の想像力をかき立てている。
暗い歴史とは裏腹に、180年以上前の砂岩の建物は美しく保存され、現在の「ヒーロー・オブ・ウォータールー」はアイリッシュビールを楽しむ地元民や観光客に愛されるパブとなった。

日本のお盆が見えない存在に心を寄せる時間ならば、シドニーの冬のロックスもまた、過去にこの街で暮らした人々の姿に思いを馳せる場所と言えるだろう。
現在はレストランやショップが立ち並び、多くの観光客で賑わうロックス。しかし、石造りの建物や古い路地を歩けば、かつてこの街で暮らした船員や囚人、労働者たちの歴史を感じることができる。幽霊の伝承が生まれた背景には、長い年月を重ねてきた港町ならではの記憶があるのかもしれない。
The Rocks公式サイト https://www.therocks.com/
シドニー国際空港からシティサークル行き電車で約20分、サーキュラー・キー駅下車徒歩5分
ガイド付きのロックス・ゴーストツアー(英語)あり。
文・写真/服部暁美(オーストラリア在住ライター)
シドニー在住のフリーランスライター。各種メディアでオーストラリアの暮らしや文化、ビジネス事情などを執筆。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。











