
現在の大阪府北西部から兵庫県南東部に広がっていた、「摂津国」。大阪や神戸を含む地域と聞けば、商業や港町のイメージを抱く人も多いでしょう。しかし戦国時代の摂津国は、京都と西国を結ぶ交通の要衝であり、織田信長や豊臣秀吉が天下を目指す上で、どうしても押さえなければならない重要な地でした。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いが描かれます。このとき、織田軍は織田信孝(おだ・のぶたか)を総大将に摂津国に集結したといわれています。
摂津国は、秀吉が天下人へと駆け上がる転換点とも深く関わっているのです。この記事では、「摂津国」について見ていきましょう。
「摂津国」は何と読む?
まずは、読み方から確認しましょう。
「摂津国」の読み方は……
「せっつのくに」です。
古くは「津国(つのくに)」とも呼ばれていました。
「津」とは、船が出入りする港を意味します。この地域には、古代から難波津(なにわのつ)や武庫泊(むこのとまり)などの港があり、大陸や西国から人や物資が集まっていました。
「摂津」という名も、都の玄関口である難波津などの港を管理する地域という意味から生まれたと考えられています。
摂津国は現在の大阪市、豊中市、高槻市、茨木市などの大阪府北西部と、神戸市、尼崎市、西宮市、伊丹市などの兵庫県南東部にあたります。京都に近く、淀川や大阪湾を利用できるため、陸路と水路が交わる重要地域です。
戦国時代の「摂津国」の変遷
戦国時代、摂津国ではどのようなことが起こっていたのでしょうか? 移り変わりを見ていきましょう。
三好氏が畿内を支配する拠点に
戦国時代の摂津国では、室町幕府の管領家である細川氏が勢力を持っていました。しかし、やがて細川氏の家臣だった三好長慶(みよし・ながよし)が台頭します。
長慶は摂津国の芥川城を拠点として京都の政治にも大きな影響力を及ぼし、一時は畿内を中心に広大な地域を支配しました。摂津国は、京都を動かすための政治・軍事上の拠点となっていたのです。
信長を苦しめた石山本願寺
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、摂津国へ進み、三好勢力を追い払いました。その後、和田惟政(わだ・これまさ)や池田勝正(いけだ・かつまさ)、荒木村重(あらき・むらしげ)らに摂津の支配を任せます。

ところが、信長の前に立ちはだかったのが、大坂石山に本拠を構えた石山本願寺でした。石山本願寺は強固な防備と多くの門徒に支えられ、元亀元年(1570)から約10年にわたって信長と戦います。さらに天正6年(1578)には、摂津を任されていた荒木村重も信長に反旗を翻しました。
信長は有岡城に籠もった村重を破り、天正8年(1580)には石山本願寺とも和睦。ようやく摂津国を安定させます。

山崎の戦いから秀吉の大坂へ
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、中国地方から引き返した羽柴秀吉は、摂津国と山城国の境に近い山崎で明智軍と対決しました。山崎の戦いに勝利した秀吉は、大山崎に城を築き、信長の後継者としての存在感を高めていきます。
翌天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺の跡地で大坂城の築城を開始しました。周辺には堺や平野郷などから商人や職人を集め、城下町を整備。摂津国の大坂は、豊臣政権の政治・経済の中心へと姿を変えていきました。
交通の要地だった摂津国は、秀吉の天下統一を支える基盤となったのです。
最後に
摂津国は、京都へ続く街道、淀川の水運、大阪湾の港を備えた、まさに天下の要所でした。そのため、戦国時代は細川氏や三好氏、織田信長、豊臣秀吉が次々と支配を争う舞台となります。
山崎の戦いに勝利した秀吉が、やがて摂津国の大坂を本拠としたことは偶然ではありません。人と物、情報が集まる土地を押さえたことが、秀吉の天下取りを大きく後押ししたといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
イラスト/ぐう(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











